鳥栖市明治維新150年記念事業「鳥栖 参志の人・技」

 

 今年は明治維新から150年の節目となる記念の年です。

 現在、佐賀県では「肥前さが幕末維新博覧会」が開催されています。

 これを機会に、鳥栖市でも「鳥栖市明治維新150年記念事業実行委員会」を組織し、幕末から明治期にかけて鳥栖の発展を支えた産業にスポットを当て、「鳥栖 参志の人・技(とす さんしのじん・ぎ)」をテーマに様々な事業に取り組みます。

 

 各実施事業についてはこちら(内部リンク)※準備が整い次第、随時公開していきます。

 肥前さが幕末維新博覧会についてはこちら(外部リンク)

 鳥栖サテライト館についてはこちら(内部リンク)

 

鳥栖の発展を支えた産業と、それにまつわる人・技

 アイコンをクリックすると、幕末から明治期の鳥栖の発展を支えた各産業とその産業に携わった人・技の紹介ページへ進みます。

 

 

鳥栖 参志の人・技

 江戸期、鳥栖市の東半分が対馬藩田代領(つしまはんたじろりょう)、西半分は佐賀藩であった。朝鮮との貿易を主な収入源とし、稲作に適していない対馬藩にとって、田代領は大切な米蔵となっていた。

 また、対馬本藩から離れた「飛び地」であることから。田代領には代官所や藩校「東明館(とうめいかん)」が置かれ、本藩から派遣された代官によって統治されていた。

 代官による統治は比較的緩やかで、藩の垣根を超えた交流が行われるなど、領民にとっては自由な環境であったようだ。

 

 特に領民に影響を与えたのが対馬三聖人の1人、賀島兵介(かしまひょうすけ)である。

 田代領の庄屋たちによって書かれた「基肄養父実記(きやぶじっき)」によれば、1675年に田代領の副代官に着任した兵介は、領地をまわり、庄屋や農民たちと直接かかわりを持ったと言われている。

 兵介は、33か条からなる壁書(かべがき)を領民の規範として広めるとともに、飢餓に苦しむ領民に米を支給するなどした。また、治水のための堤防を造るなど、領民の生活の向上にも力を注いだ。

 今も残る「憲副賀島君碑」は、領民代表の庄屋たちが建立したものである。兵介がわずか10年間に残した「善政」が、いかに田代領の人々に慕われたかを物語っている。今でも年に1度、兵介の功績をしのぶ「賀島祭(かしまさい)」がこの碑の前で行われている。

 

 自由な環境、偉大な人物との関わり、そして、長崎街道を通って伝わる様々な文化・人・ものなどに常に触れていた対馬藩田代領。

 わずか13,000石、人口は10,000人程度の小さな領地であったが、幕末から明治期にその地域で興された3つの産業は、当時の我が国に、そして、現代に大きな影響を与え続けている。

 それは、先人の強い意「」と、偉人と言われる「」が、卓越した「」によって苦難を乗り越え築き上げたものであり、それが、現在の鳥栖の礎となっているのである。

 

 

■ お問合せ先

〒841-8511 佐賀県鳥栖市宿町1118番地
鳥栖市役所 産業経済部 商工振興課

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更新日:2018/8/21