鳥栖 参志の人・技 参「鉄道」

         

 

「鳥栖」発「未来」行、物流拠点・鳥栖の原点。

 明治22年12月、九州初の鉄道が開通し、鳥栖駅・田代駅が誕生した。当時、機関車の煙が農作物に悪影響を与えるのではないか、などの理由から反対する声も多かったようだが、鳥栖の人々は積極的に鉄道誘致を行う。

 長崎方面への分岐駅ともなった鳥栖駅はその後、46.8haもの広大な敷地を有し、構内線路の拡張、運輸・機関・保線の3事業所が設けられるなど、鉄道輸送の拠点として機能強化されていく。

 最盛期には大規模な操車場や2棟の扇形機関庫、大型給炭塔などが設置され、鳥栖駅は九州の一大物流拠点として、大きく成長していく。

 

 八坂 甚八(やさか じんぱち)

(1853〜1929)

 

 筑後川で舟運を行うほか、学校や牧場、銀行業を興すなど、チャレンジ精神豊富な実業家。

 九州鉄道開通に当たり、陸運の可能性に着目。分岐点を鳥栖に誘致し、陸運業に乗り出す。

 鳥栖駅が手狭になってくると、自分の広大な土地を提供し、現在の場所へ誘致。

 広大な土地を有したことで鳥栖駅、そして鳥栖は、九州の一大物流拠点として現在の地位を確立していくこととなる。

 鉄道員

 

 蒸気機関車の整備、線路の点検等、その業務は多岐に渡る。特に整備については、目や耳など感覚で行う作業も多く、熟練の技術が必要であった。時には命がけの作業も。

 1920年には、4,299人もの鉄道員が鳥栖駅に勤務していた。これは、当時の鳥栖町の人口の約3割にあたった。

 

 打音検査

 

 機関車のネジのゆるみや、破損を音で聞き分けることでチェックするという熟練技。

 ここでの見落としが大事故を引き起こすことにもなりかねないため、決して気を抜くことはできなかった。

 貨車の仕分け

  

 最盛期には1日で2,000両もの貨車を取り扱っていた鳥栖駅。80の線路があり、行先に応じて貨車を各線へ仕分けていた。

 貨車には人が乗っておらず、勢いよく走っている貨車に鉄道員が飛び乗り、ブレーキをかけるという命がけの社業であった。

 保線

  線路の安全性を保つために行う作業のこと。線路はわずか1センチでも高さがずれると、走行安定が悪くなり、揺れの原因や脱線の原因となる。

 熟練者はミリ単位のずれが目で見て分かったという。広大な線路を歩いて点検し、重たいツルハシで作業するため、かなりの重労働であった。

 

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更新日:2018/6/14