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企画展「田代代官所の実像」

記事ID:0021360 更新日:2022年7月22日更新 印刷ページ表示
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開催期間

 平成20年3月4日~3月16日

会場風景

「田代代官所」とは?

 「基肄養父(きやぶ)」と呼ばれる肥前国基肄郡(きいぐん)全域と養父郡(やぶぐん)の東半部は、慶長4年(1599)から明治4年(1871)の廃藩まで、対馬の島主・宗(そう)氏の領する表高1万3千石ほどの飛び地領でした。その統治機関が「田代代官所(たじろだいかんしょ)」です。
この代官所は、長崎街道の田代宿(たじろじゅく)、現在の田代小学校の位置に置かれていました。なお、江戸時代には「代官所」という名称はなく、地元では「お屋敷」と呼ばれていたようです。
鳥栖市教育委員会では、代官所で作成された文書や絵図、田代代官所の建物を描いた指図などの調査を進めてきました。そこから、江戸時代の田代領の様子や領民の生活が、次第に明らかにされてきました。

 

基肄養父の位置 〈基肄養父の村々と当時の街道〉

 

 

対馬藩田代領とその統治

田代に直接代官が派遣されるのは寛永12年(1635)からで、以後は明治に至るまで代官の常住体制がとられるようになります。代官所の長(代官)は「奥役(おくやく)」といい、次席のいわば副代官が「表役(おもてやく)」あるいは「佐役(すけやく)」、さらにその次席の「賄役(まかないやく)」で、この3人は対馬本藩から数年の任期で派遣されていました。
また、現地登用の代官所役人(地役・じやく)は、通常5~6人の「手代役(てだいやく)」と、その下に「諸役(しょやく)」がいました。諸役には土地方吟味役(とちがたぎんみやく)・用銀掛(ようぎんかかり)・請払留役(うけはらいとめやく)・祐筆役(ゆうひつやく)・東明館掛(とうめんかんかかり)・考鑑方(こうかんがた)・作事掛(さくじかかり)・山方役(やまかたやく)・目付役(めつけやく)・玄関番があり、それぞれに見習・助勤・仮役が付いていました。そのほか、足軽級の「三組」(御門番・使番・小人)や買物番などがいました。

鳥栖市重要文化財 対馬宗家田代領関係資料

江戸時代中期(1700年代)から幕末にかけての、田代領の様子や領民の生活を記録した貴重な資料です。

対馬宗家田代領関係資料の集合写真

田代代官所毎日記(たしろだいかんしょまいにっき);前列の右端

 安政2年(1855)。田代代官所の「業務日誌」ともいうべきもので、通常は手代役の指導のもと祐筆役が筆記していました。展示の「安政二年卯 正月毎日記」と「安政二年卯 二月毎日記」を合冊したもののみが唯一現存します。

基肄郡神社記録(きいぐんじんじゃきろく)、養父郡神社記録(やぶぐんじんじゃきろく);後列の右端

 正徳6年(1716)。田代代官所管内にあたる基肄郡と養父郡にあった神社の由緒等の記録。   

基養政鑑 附基養鏡函(きようせいかん・つけたりきようかがみばこ);後列の右から2番目、木箱入り

寛政11年(1799)編纂。田代代官所の企画により、延宝4年(1676)から寛政3年(1791)まで116年間分の「田代代官所毎日記」の記事を抜粋・編纂したもので、過去事例の検索を容易にするために各巻頭には「目録(見出し目次)」を掲載しています。
なお、同様のものが「日記抜書」という書名で対馬藩庁に提出されており、現在は「宗家文庫」の中に収められています。

考 鑑(こうかん);前列左端および左から2番目

「基養政鑑」が「田代代官所毎日記」の抄録であるのに対し、「考鑑」は日記中の主要記事を見出しの形で書き出したものです。現在、享保14年(1729)~ 文化3年(1820)分の15冊が現存します。
 領内は「三郷両町(さんごうりょうまち)」と呼ばれ、領域は基肄郡上郷(かみごう)・下郷(しもごう)、養父郡に三分し、そのうち長崎街道に沿う町場の田代・瓜生野(うりゅうの)を両町としました。各郷には各村々の長である「庄屋(しょうや)」を統べる「大庄屋(おおじょうや)」が、両町には別当(べっとう)・座親(ざおや)が任命されました。

えがかれた田代代官所

 鳥栖市重要文化財(歴史資料) 田代代官所指図 2図

上が享保9年(1724)、下が弘化4年(1847)のもの。いずれも田代代官所の作事掛を務めた家に伝えられてきたものです。
田代代官所の建物は、改築工事が少なくとも2回行われている事がわかっています。改築の前と後では建物の位置が大きく変わっていますが、これは一気に解体と新築を行うのではなく、代官所の機能を維持しつつ、部分的に改築を進めたためとおもわれます。

享保9年の田代代官所指図 〈享保9年の田代代官所をえがいた指図〉

 

弘化4年の田代代官所指図 〈弘化4年の田代代官所をえがいた指図〉

 

なお、もとは中庭を囲んで建物を連接配置した、一般的な御殿造の構造であったのが、幕末の改築では機能ごとに3棟の建物に分散する配置に改められています。
文献には弘化4年(1847)に指図を対馬本藩に提出したことが記されており、その控えとみられる本図もこの頃の作成と考えられます。代官所の普請は、嘉永2年(1849)に始まり、嘉永4年(1851)1月に竣工しました。

 

発掘調査でみえてきた田代代官所の姿

平成19年7月、田代小学校でプールの新築工事をする前に、1,200平方メートルの範囲を発掘調査しました。田代代官所の建物があった位置は現在の校庭の部分ですが、そのうち北西の部分を調査しています。なお、校庭より一段高くなっている校舎や体育館が建っている場所は、代官所があったころは裏山のような高台だったと考えられます。
調査をおこなった校庭北側は、現在の校舎が建てられる前に、明治~昭和にかけて幾度か改築を重ねて校舎などがあったところです。したがって、それらの建物を解体した瓦礫や廃材などが大量に埋められおり、江戸時代の地面が大きく改変されていました。代官所の遺構は残されていないものとおもわれましたが、これらを取り除くと、陶磁器や瓦の細片を混ぜた土を詰めた「コ」の字形の幅の広いくぼみがみつかりました。

発掘調査を行う様子  建物の廃材を入れ込んだ掘り込み
〈発掘調査の様子(左)と、瓦礫や廃材が埋めこまれていたくぼみ(右)〉

このくぼみの上から掘り込まれたかたちで、いわゆる便所甕とみられる据甕の底部分が原位置で検出されました。このくぼみから出土した遺物の時期は19世紀前半を下るもの、つまり幕末の改築以降のものがみられないことなどを考え合わせて、弘化4年の指図との照合から、この部分は「本屋」の北にある「雪隠(厠・トイレ)」であることがわかりました。この部分の地面は水はけが悪く建物の基礎を作るにあたり、以前の建物で使用されて廃棄された陶磁器や瓦の細片を混ぜた土を埋めて整地したようです。

便所あと 〈当時のトイレ〉

田代代官所跡の発掘調査で出土した瓦や陶磁器

発掘調査で見つかった陶磁器 

発掘調査では、代官所の暮らしぶりをうかがわせる、陶磁器がたくさん見つかっています。これらは17世紀から19世紀にかけてのもので、その多くが肥前産です。
この中には、いくつかめずらしい品がありました。ひとつは「染付芙蓉手花虫文輪花皿(そめつけふようではなむしもんりんかざら)」で、もともとは長崎の出島からヨーロッパに輸出するために作られていた、特別なデザインのものです。これが田代代官所から見つかったということは、対馬藩と長崎・出島との関係や、長崎街道の宿場町であった田代宿の重要性などを考える上で大きなヒントになりそうです。
また「御本茶碗(ごほんちゃわん)」と呼ばれる、対馬藩の御用窯で焼かれた高級なやきものの破片もありました。御用窯とは、商品として売るものではなく藩主の特別な楽しみのためにやきものを焼く窯のことをいい、対馬藩の厳原窯で作られたものは将軍や大名、公家への贈答に使われる高級品でした。

 

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