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企画展「対馬宗家田代領関係資料にみる幕末の動乱と明治維新」

記事ID:0040371 更新日:2022年7月22日更新 印刷ページ表示
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開催期間

鳥栖市明治維新150年記念事業
平成30年10月19日~31日

会場風景

はじめに

嘉永6年(1853)のペリー来航以来、慶応4年(1868)の江戸城開城までの15年間の幕末動乱の時代は、日本歴史の近世から近代に移行する重大な転換期です。
鳥栖市の東半分と基山町は江戸時代を通して対馬藩の飛び地で、田代宿にあった代官所(現在の田代小学校)で統治していました。
朝鮮との交流の窓口であった対馬藩は、幕府から浜崎領(現在の唐津市東部から糸島市西部)の拝領や年3万石の下賜など多くの恩恵を受けており、もともと幕府への忠誠心の強い藩でした。一方では文久元年(1861)のロシア軍艦ポサドニック号の来航など外国の脅威を体験し、藩内には外国を排斥する(攘夷)機運も高まっていました。
ここでは、平成25年に鳥栖市重要文化財に指定された「対馬宗家田代領関係資料」のうち、幕末の激動する社会をうかがわせる史料を紹介します。

幕末の対馬藩田代領と攘夷論

対馬藩主の正室を長州藩主の毛利家から迎えたことを契機に、両藩士の交流は深まっていきました。その中で、長州の過激な攘夷論に影響を受ける対馬藩士が現れ、やがては江戸で佐幕派の家老を殺害し、長州と尊王攘夷の同盟を結ぶなどの行動に出るようになりました。
この頃から田代の地も尊王攘夷運動や藩内抗争の影響を直に受けるようになります。対馬藩の尊王攘夷派の代表格である平田大江や、その息子である平田主米が奥役(代官)に就いていた当時の田代は、勤皇志士たちにとっては策謀地や避難地としての役割を果たしており、数多くの志士が出入りしていました。
平田大江は、桂小五郎・高杉晋作(長州藩)・西郷隆盛(薩摩藩)・月形洗蔵(福岡藩)など多くの志士たちと親交を持ち、田代を拠点に福岡・佐賀あるいは京や大坂・長州などへ頻繁に行き来して志士活動を行いました。また平田は、10数名の田代の若者に長州へ亡命した公卿の警備を命じ派遣しています。
しかし長州藩が京都での政局で失敗し、元治元年(1864)の蛤御門の変で敗退、やがて朝敵として幕府に追討されようとするに及んで、対馬藩や福岡藩では尊王攘夷派の大弾圧が行われ、平田も慶応元年(1865)に藩命で殺害されました。その際に脱藩した一部の者以外、もう対馬や田代で志士活動を行う者は現れませんでした。前途有望な人材を自ら枯渇させた対馬藩や福岡藩は、時勢に大きく乗り遅れることになりました。

田代代官所指図(たじろだいかんしょさしず)  鳥栖市重要文化財

田代代官所指図 代官所内建物配置図 

田代代官所の作事掛を務めた家に伝えられてきたものです。田代代官所の建物は幕末に全面改築されていますが、文献には弘化4年(1847)に指図を対馬本藩に提出したことが記されており、その控えとみられる本図もこの頃の作成と考えられます。普請は嘉永2年(1849)に始まり、嘉永4年(1851)1月に竣工しました。この建物が代官所として機能したのは明治4年7月(1871)までのわずか20年間でした。

部類別考鑑(ぶるいべつこうかん)  鳥栖市重要文化財

部類別考鑑

代官所の毎日記などから過去の記事を部類別に編集し、より容易に過去の事例を検索できるようにしたものです。編集作業は明治初年まで継続されました。享保元年(1716)~慶応4年(1868)分の29冊が現存します。

部類別考鑑「隣国ヨリ御使者之部」 文久3年(1863)11月22日 の記述

隣国ヨリ御使者18631122

平田大江はこの年10~11月に長州に出向き桂小五郎(のちの木戸孝允)らと会談、「天下一定の策」について論じています。また、10月18日に七卿(政変で京都を追われた三条実美ら長州派の公卿)警護のため田代から18人を長州へ派遣しています。この頃、桂は頻繁に田代へ使者を送って平田に長州の動向を知らせる書状を送っていたようです。
長州藩の桂小五郎はとくに平田ら対馬藩士との交流が深く、翌元治元年(1864)6月の池田屋事件の際には、会合前に近くの対馬藩邸を訪ね同藩士の大島友之允と談話していたため難を逃れています。
なお、書状を持ってきた「庄蔵」は湯川庄蔵(蛤御門の変で戦死)、「小田村文助」は、小田村伊之助のちの楫取素彦(群馬県令・男爵)です。

部類別考鑑「公義御触考鑑之部」 文久4年(1864)2月12日 の記述

公儀御触18640212

江戸藩邸からの書状で「浪人亡命之者」(ここでは尊王攘夷過激派の脱藩浪士のこと)の取締りについて幕府から通達があったことが記されています。

部類別考鑑「隣国ヨリ御使者之部」 文治元年(1864)7月12日 の記述

隣国ヨリ御使者18640712

7月12日に長州藩より使者が二人来たことを記しています。「相持様」は誰のことか、あるいは何かの符号なのか詳細は不明です。この時期長州藩は京都御所に嘆願の名目で軍勢を送りますが、同19日の蛤御門の変で敗退します。なお使者の「杉徳輔」はのちに枢密顧問官・子爵、「瀧弥太郎」は佐賀・長崎地方裁判所判事・岡山裁判所長を歴任しています。

部類別考鑑「公義御触考鑑之部」 元治元年(1864)9月17日 の記述

御公儀御触18640917

9月17日に長崎奉行所より、蛤御門の変で敗退し朝敵となった長州藩の人や荷物が開口地である長崎への出入りが一切禁止になったことの通達があったとの記述です。これにより長州藩は武器類の正規輸入が不可能となりました。しかし翌年には土佐の坂本龍馬が主宰する亀山社中の仲介で薩摩藩名義の輸入武器類を長州に大量に搬入できることになります。

部類別考鑑「御両役考鑑之部」 元治元年(1864)11月9日及び12日 の記述

御両役18641109.12

11月9日に平田大江と表役(副代官)の五十嵐昇作が「急御用」で佐賀に出張し、同12日に帰着したと記されています。平田の目的は福岡藩や佐賀藩との連携を図って幕府に対抗すること(「肥筑合従策」)を佐賀藩の要人に説くことで、高杉晋作の鍋島閑叟宛ての漢詩も携えていったものと思われます。しかしながら佐賀藩は情勢静観の姿勢を崩さず、平田らは門前払いの扱いを受けました。したがって漢詩が閑叟の目に触れることもなかったようです。

部類別考鑑「諸大名通路考鑑之部」 元治元年(1864)12月6日 の記述

諸大名通路18641206

12月6日に長州藩の「谷梅之介」「野只人」「里見次郎」「佐々木太郎」「加藤新太郎」の5人が諸藩に「内々の打ち合わせ」を行うための旅費に難渋しているとの申し出があったので、40両の手当金を支給したとの記述です。平田大江の指示によるものと考えられますが、尊王攘夷の志士(幕府側から見れば朝敵の藩士ないしは「浮浪の徒」)の活動資金に藩の公金40両(現在の貨幣基準で約100万円)を支出したという大変珍しい記録です。
なお、「谷梅之介」は高杉晋作の変名、「野只人」は中村円太(福岡脱藩、博多で横死)の変名、「里見次郎」は岩橋半三郎(和歌山脱藩、京都で獄死)の変名、「佐々木太郎」は佐々木男也(長州藩士、のちに第百十国立銀行・日本郵船支配人)ですが、高杉は11月25日には長州に戻っており、しかも中村や岩橋は長州人ではありません。

部類別考鑑「御両役考鑑之部」 元治元年(1864)12月6日 の記述

御両役18641206

12月6日に平田大江から代官所賄方(財務担当)への指示で藩周旋方(藩外交担当)の多田荘蔵へ40両の手当金を支給するようにとの指示があったとの記述です。長州藩士に支給したとの代官所の毎日記から引用した「諸大名通路考鑑之部」の同日の記述と賄役の毎日記から引用した本記述とは明らかに相矛盾した内容となっています。

部類別考鑑「公義御触考鑑之部」 慶応2年(1866)9月6日 の記述

公儀御触18660906

9月6日に京都の対馬藩邸から書状が届き、将軍(徳川家茂)が死去したので、喪に関しては先代の将軍、徳川家定の例を参考にすること、今後は一橋中納言(慶喜)を「上様」とお呼びするようにとの通達があったとの記述です。
この年6月7日に第二次長州征伐(幕長戦争)が始まりますが、翌月20日に江戸城で将軍徳川家茂が病没します。同29日に徳川宗家を相続した一橋慶喜は長州に反転大攻勢を仕掛けたのちに長州と有利に和議を結ぶ方針でしたが、8月11日に小倉城が陥落したため急きょ方針を撤回し、同20日には停戦の勅命が下りました。慶喜が将軍職に就くのは12月5日です。これらの情報は田代には届いていなかったのか、部類別考鑑には記述はありません。

部類別考鑑「御凶左右考鑑之部」 慶応3年(1867)3月4日 の記述

御凶左右18670304

3月4日に京都の対馬藩邸から通知で、天皇(孝明天皇)が崩御したので、田代領内は一同喪に服すようにとの通達があったとの記述です。幕府に同情的で長州藩を嫌悪していた孝明天皇の崩御で、時局は急展開し幕府瓦解へと一気に進むことになります。

部類別考鑑「御吉左右考鑑之部」 慶応4年(1868)1月26日 の記述

御吉左右18680126

1月26日に「天朝幕府」から「御用」の為上京するようにと書状が来たので、藩主(宗義達)が近く上京することを田代領内に通知するようにとの指示が藩庁から届いたとの記述、3月14日に藩主が上京するために2月8日に厳原を出立したので田代領内に通知するようにとの指示が藩庁から届いたとの記述、4月18日に京都の対馬藩邸から書状が届き、(無事に京都に藩主とその一行500名が到着したので)田代領内に通知するようにとの指示があったとの記述です。対馬藩は京都近郊の淀川右岸の現在の八幡市方面の警備を命じられました。装備が劣弱であったため戊辰戦争には参戦することはありませんでした。
新体制を「天朝幕府」と表現しているのは、薩長を中心とした新政府の実態がこの段階では未だ不透明であったためと思われます。

部類別考鑑「公義御触考鑑之部」 慶応4年(1868)4月19日 の記述

公儀御触18680419

4月19日に高札を掲げ替えるようにとの通達が来たとの記述です。前月15日に明治元年太政官布告第158号「諸国旧来ノ高札ヲ除去シ定三札覚二札ヲ掲示ス」が全国に発令され、旧幕府に替わり薩摩・長州を中心とする新政府が一般庶民の心得を示した5つの高札(「五榜の掲示」)が掲げられました。田代宿の高札場は現在の久光製薬鳥栖工場の北西三叉路の北側付近にありました。

津田愛之助筆 道中日記帳  鳥栖市重要文化財

津田愛之助政信は幼名を積蔵といい、藩校東明館に学んだあと、代官所に出仕しました。元治元年(1864)4月に藩命で青木与三郎・古賀寛二・八坂恵助・岩谷藤九郎の4人とともに長州に出向き、いわゆる七卿の警護にあたりますが、この5人は6月には脱藩して長州藩の諸隊「忠勇隊」に参加し、京に上ります。そして7月19日、禁門の変の乱戦の最中、御所南の鷹司邸付近で青木とともに戦死、時に18歳でした。明治になって靖国神社へ合祀・従五位が贈られています。
この道中日記帳は、田代から長州に出向く4月14日から、脱藩して忠勇隊に参加する直前の6月1日までの愛之助自身の日記で、おそらく京に上る直前に実家に送ったものと推定されます。あるいは形見と考えていたのかもしれません。

道中日記

長州出張に召集される理由は「表向けは実家毛利家に滞在中の前藩主夫人(慈芳院)の警護ということになっているが、実際は長州に亡命している三条実美ら7人の公卿の警護であるらしい」と記していますが、前年に同様に七卿警護で田代から17人が出向いており(すでに帰郷)、彼らからこの間の事情を聞いていたと思われます。
5月2日に三条実美からお声がかりがあり、御殿で拝謁したことが記されています。愛之助らが三条に拝謁し警護を行った御殿(高田御殿「何遠亭」)は前日に移った新築屋敷で、現在山口市湯田温泉の井上公園内に復原整備されています。三条実美はのちに太政大臣・内閣総理大臣をつとめました。

なお愛之助の名は、京都南郊・天王山の陣中に遺棄されていた愛之助の衣服の袂に名前とともに書き付けていたという「大君の御盾となりて捨つる身とおもへば軽きわか命かな」の和歌が戦時中の「愛国百人一首」に採用され、当時一躍有名になりました。この歌碑が田代本町の安生寺にあります。

津田愛之助歌碑

三十二間筋兜 (さんじゅうにけんすじかぶと)

三十二間筋兜

江戸時代後期。津田愛之助は元治元年(1864)4月に藩命で長州藩に出向き、いわゆる七卿(京都を追われた三条実美ら長州派の公卿)の警護にあたります。津田家の伝承では、その際に家にあった具足でもっとも良品を携えて出立したとのことです。この兜は愛之助が持ち出すことなく、津田家に遺されていたものです。

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