鳥栖空襲

昭和20(1945)年8月11日、鳥栖市域はアメリカ軍による空襲を受け、甚大な被害を受けましたが、戦後の混乱などにより被害の詳細についてはわかっていません。ここではわずかに残る資料や聞き取り調査などから当時の状況をみていきます。

 

空襲当日(8月11日)

夏の太陽がぎらつくなか、10時30分から11時20分にかけて、B25爆撃機による3波の攻撃を受けました。同時刻には久留米でも大規模な空襲があり、同じ基地から出撃した部隊と推測されます。第1波は、南西部から侵入し、鉄道路線や笠井食料倉庫、東町・今泉町の一部、藤木町、永吉町を襲いました。次いで第2波は、南東部から入って高射砲陣地を壊滅させています。最後の第3波は西方向から侵入して日清製粉鳥栖工場を焼き、さらに曽根崎町が大きな被害を受けました。なお、8月10日夜には、鳥栖上空でアメリカ軍が照明弾を落としています。空襲予告もしくは爆撃位置の確認が行われたと考えられます。

アメリカ軍機侵入経路(番号)と被災地区(赤点線)

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なぜ空襲をうけたのか

昭和19年7月以降、アメリカ軍による日本本土への空襲が本格化し、昭和20年7月になると鳥栖周辺にも頻繁に爆撃機が飛来するようになります。当時の鳥栖は、人口から空襲の対象となる町ではありませんでしたが、鉄道輸送の要の地であったこと、火薬原料の製造に従事した日清製粉鳥栖工場航空機部品製作を行っていた片倉航機製作所、精米精麦を業務とする笠井食料工場などの軍需工場や、それらを守るため高射砲陣地などの軍事施設があったことから狙われたとされています。

国鉄鳥栖電力区の職員と学徒動員されていた生徒が避難した防空壕が、爆弾の直撃を受けて13名が亡くなっています。また藤木・曽根崎両町では、防空壕内での爆死や窒息死した方が相次ぎました。防空壕は素堀りの溝に古木材を掛け渡し、板やむしろを並べた上に土を覆う程度のものであったため、ひとたまりもなかったそうです。

 

被害

被害状況は、罹災人口3,200人、死者119名(藤木町38名、山浦町2名、本鳥栖町4名、東町9名、曽根崎町24名、鳥栖機関区5名、鳥栖電力区7名、学徒動員生徒6名、軍関係者20名、永吉町4名)、民家の全壊36戸とされていますが、はっきりとしたことはわかっていません。また鉄道関連の施設の被害は少なく、攻撃対象になるとは考えられない場所に無数の爆弾の破裂した跡が残っていたことから、爆弾が正確には目的地へ投下されていなかったことが伺えます。

空襲からわずか4日後の8月15日、戦争は終わりました。

水田にできた爆弾池(昭和32年ごろ)

 

空襲体験者の証言から

「一家8人の死」「学徒動員での娘の死」「生き埋めになった娘」「孫を探す祖母」「燃え上がる工場」など、空襲の際におきた悲痛な話や体験談が今でも伝えられています。また昭和39年には今泉町の民家から不発弾が発見され、70年たった今日でも市内各所に空襲の痕跡を見ることができます。

不発弾処理(昭和39年・今泉町)

 

参考文献

轟木一二三「鳥の里」第4号 昭和55年

鳥栖郷土研究会「栖25号」 平成6年

鳥栖市誌第4巻「近代編」 平成21年

 

市報とす平成27年9月号掲載

※鳥栖空襲の際の写真や資料を探してします。詳しくは生涯学習課(電話85-3695)へ。

 

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更新日:2017/2/7