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60年のあゆみ 1954〜1963年

1954(昭和29)年4月、2町3村が合併して鳥栖市が誕生します。

この時代は、新市建設へ向けての計画「新市建設計画」が作られ、交通の便のよさを生かした企業誘致が盛んに行われるようになります。

また、風土病である日本住血吸虫病の本格的な対策や市営住宅の建設、小学校・保育所・中央公民館の建設など、新しいまちづくりのための事業が多数展開されていきました。

 

 

2町3村で合併調印式、「鳥栖市」が誕生

戦後、「地方自治を重視する」という考えから、国が「町村合併促進基本計画」を決定し、佐賀県が県の総合開発計画を策定します。

県の指導の下、三養基郡東部6カ町村で合併の話が進められ、まず鳥栖町・麓村が、その後、旭村・基里村・田代町が合併促進委員会を結成します。

そして1954(昭和29)年2月、基山町を除く5カ町村による新市建設の合併促進協議会が設立。同年3月に新市建設の手続きが取られ、新市名投票によって「鳥栖市」の名称が決まりました。なお、市発足時の人口は4万176人、世帯数は7,304世帯でした。

 

2町3村の首長による調印式

初代市長 海口守三氏

 

※海口氏の市長就任期間…1954(昭和29)年5月〜1965(同40)年3月

 

 

市制施行当初から進められた企業誘致

初代鳥栖市長の海口守三は、就任後まもなく積極的に企業誘致に乗り出しました。1954(昭和29)年6月には、「鳥栖市工場、事業場等の設置奨励に関する条例」(工場誘致条例)が制定されます。

鳥栖市発足後の誘致企業第1号となったのは、日本エタニットパイプ(株)でした。以降、オリエンタルコンクリート(株)、大和ハウス工業(株)、聯合紙器(株)など数々の企業を誘致します。

鉄道輸送上の利便性や国道3号と34号の分岐点であることなどの地の利が、企業誘致における大きな強みでした。

 

 

 この時期に操業した誘致企業 ※企業名はいずれも当時の名称

 

 ・日本エタニットパイプ(株) ・オリエンタルコンクリート(株) ・大和ハウス工業(株)

 ・九州三共(株)       ・九州亜鉛鉄工(株)       ・聯合紙器(株)

 ・九州積水工業(株)     ・(株)太田種鶏場        ・福岡菱光コンクリート工業(株)

 

 

 

誘致企業第1号の日本エタニットパイプ(株)

 

オリエンタルコンクリート(株)


 

風土病 日本住血吸虫病(日住病) 撲滅に向けての取り組みが本格的に

寄生虫による感染症の一種であり、九州では筑後川流域という限られた場所でのみ見られた日本住血吸虫病。

病気の原因となる日本住血吸虫の中間宿主・ミヤイリガイを撲滅させることが、この風土病に対する強力な対策であることから、市制施行後は、これまで以上に用水路のコンクリート化に力が入れられ、殺貝剤の散布、土地の熱処理なども開始されました。

また、病気の早期発見と予防のために、市民を対象とした検便も実施されるようになりました。

 

コンクリート化された用水路(轟木町にて)

 

 

市実験農場開設

市内の農林業の合理化と農村生活の安定を目的に1955(昭和30)年に平田町に開設された実験農場。

山林苗木の育成から始まり、果菜類の園芸や畜産などが主に行われました。

この時期、市内ではミカンの栽培やニジマス(牛原)・ウナギ(下野)の養殖、酪農などの分野でも組合が作られ、農林水産業が盛んな時期でもありました。

 

 

実験農場で育てられる乳牛

 

実験農場で栽培されているマッシュルーム

 

 

鳥栖機関区全盛時代 1961年には電化開通

1889(明治22)年の鳥栖駅開業以来、「鉄道のまち」として栄えてきた鳥栖。

企業の進出により原料・製品などの輸送も増加する中で、自動車の普及が進む以前の昭和30年代、鳥栖機関区は全盛期を迎えます。この時期従業員は約700人、在籍機関車は50両以上でした。

また、1961(昭和36)年には、鹿児島本線門司港−久留米間が電化開通し、翌年以降、さらに鉄道の電化が進められました。

 

 

昭和30年代の鳥栖駅構内

 

鳥栖駅での電化開通の式典

 

 

国道の整備 そしてバスの営業所が鳥栖に

昭和30年代以降、鳥栖でも次第に自動車が普及するようになり、国道が整備されます。

1960(昭和35)年には、国道34号の永吉−轟木間が開通し、今のような幹線道路として整えられました。利便性の高まった国道3号・34号沿いには進出企業や商店などが立ち並び、同様に西鉄バス営業所が1961(同36)年開設。この地での営業所の開設も、交通の要衝であることを買われたものでした。

 

 

開通した国道34号(轟木町)

 

市内を走るバス

 

 

市営住宅が次々と建設 共同風呂はこの時期まで

1954(昭和29)年に、田代本町や鎗田、原、江島で市営住宅が建設されたのを手始めに、1957(同32)年には山浦一ノ坪(現・山都町)に40戸、翌年以降も原古賀に40戸、田代外町に50戸、このほか儀徳や立石一本杉、村田などでも市営住宅の建設が行われました(現在はいずれも払い下げ)。

このように新しい住宅が建設されるにつれ、これまで各家庭にお風呂がなかったために地域や隣近所などで管理・運営されていた「共同風呂」(鳥栖地域では「モヤ風呂」と呼ばれていました)が、この時期を最後に姿を消していきました。

 

市営住宅入居のくじ引きの様子


 

 

市民の力で中央公民館建設 市制施行後初となる小学校・保育所も

1960(昭和35)年5月、市として初めての文化施設となる中央公民館が、現在の保健センターの場所に建設されました。
同館は、当時の文化連盟会長である書家の平川朴山(満)氏が中心となり募金活動を行い、総工費1,200万円のうち400万円を市民の寄付でまかないました。また、文化的な活動の一例として、同年に鳥栖初のオーケストラ団体である市民管弦楽団も結成されました。
この時期、市制施行後初となる市立小学校(鳥栖北小学校)と、同じく初となる市立保育所(小鳩園)が1956(同31)年に新設されました。

建設された中央公民館

 

 

1954〜1963年 この時期のできごと

  1954(昭和29年) 市制施行、鳥栖市発足

            工場誘致条例決定、積極的な企業誘致が進む

 

  1955(昭和30年) 鳥栖市で県民体育大会開催

            実験農場開設

 

  1956(昭和31年) 鳥栖小学校第2分校(鳥栖北小学校)開校

            公益質屋開業

            日本専売公社鳥栖工場 新築落成操業開始

 

  1957(昭和32年) 中心市街地で火事、鳥栖劇場など2棟全半焼

 

  1958(昭和33年) 鳥栖市土地改良区設立

            鳥栖初のスーパーマーケット「銀鳥」開店

 

  1959(昭和34年) 蔵上町の「御田舞」、県重要無形文化財に指定

            大字を廃止、新町名に

 

  1960(昭和35年) 市中央公民館落成

            国道34号(永吉ー轟木間)開通

 

  1961(昭和36年) 初めての市民体育大会開催

            鹿児島本線門司港ー久留米間電化開通

 

  1962(昭和37年) 市消防本部、市消防署設置

 

  1963(昭和38年) この年の国道34号の交通量1日平均4,385台

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更新日:2014/3/5