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企画展「昔、戦争があった-鳥栖空襲と人々の暮らし-」

記事ID:0103232 更新日:2025年10月1日更新 印刷ページ表示
<外部リンク>

開催期間

終戦80年企画展
令和7年8月1日(金曜)~24日(日曜)

展示

<展示全景>

はじめに

 今年で太平洋戦争終戦から80年を迎えます。
 鳥栖市教育委員会では、鳥栖空襲で被災した8月11日にあわせて戦争に関する展示を行っています。今回は「昔、戦争があった -鳥栖空襲と人々の暮らし-」というテーマで展示を企画しました。
 本展示では、戦時中の鳥栖を映した写真や戦地から送られた手紙、実際に戦時中に使用された道具などを展示しています。当時の人々がどのような思いで生活していたのか、その生活はどのような様子だったのかを知ることができます。また、現在の鳥栖市に残る戦争の痕跡についても取り上げています。
 太平洋戦争後、日本ではこのようなことを二度と起こさないために終戦から現在に至るまで平和主義を憲法に掲げ、争いを行わない国として存在しています。 
 この展示を通して、多くの人に平和の尊さや争いの恐ろしさを知っていただくとともに、これからの平和とは何なのかについて考え、現代社会に目を向ける機会となれば幸いです。

鳥栖空襲について

鳥栖空襲

 昭和20年(1945)8月11日、午前10時30分頃から11時20分頃、鳥栖市域(当時の鳥栖町・田代町・基里村)はアメリカ軍による空襲を受けました。鳥栖が空襲で狙われた理由としては、鉄道輸送の要地であったこと、多くの軍需工場が集まり物資の拠点として機能していたこと、空襲に備えた防衛施設が存在していたことが挙げられます。
 今回の展示では、これまで明らかになっているアメリカ軍の空襲経路や爆撃地点・主要施設などについて、下図のとおりまとめました。その結果、鳥栖空襲は矢印の方向で3回にわたって攻撃が行われたこと、3回の攻撃はいずれも鳥栖駅周辺の施設を標的としていたことなどがわかります。
 鳥栖空襲直後の様子を撮影した写真をみてみると、写真左側を縦一列に伸びる雲が確認できます。この雲は西から東にかけて伸びており、3回目の空襲によってできた雲です。また、その中でも鳥栖駅周辺の上空は雲が濃くかかっており、爆撃が集中していたことが読み取れます。
 しかし、アメリカ軍の操縦士が目標地点を誤認したことや操縦技術不足によって、鳥栖駅南側の藤木町・今泉町一帯の民家に攻撃が集中し、119名と多くの犠牲者が出ることとなりました。

爆撃

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<上空から撮影した鳥栖空襲直後の様子>

 

鳥栖空襲前後の鳥栖

 鳥栖は古代から交通の要衝として存在しており、戦時中もその役割を担いました。戦争が開始されると鉄道の需要はこれまで以上に大きくなり、人・物資・石炭輸送などで鳥栖が中継地点となりました。東に大刀洗飛行場、西に目達原飛行場や佐世保鎮守府といった軍事施設もあったため、日本国有鉄道(国鉄)では大規模な従業員の増加が年々行われました。
 さらに、元々あった民間の工場は軍需物資を製造する工場へと変わっていきました。笠井食糧倉庫(現:鳥栖倉庫)(物資保管・精米精麦)・片倉航空機製作所(航空機油槽・部品製作)・日清製粉鳥栖工場(食糧保管・製粉の製造および火薬工場への供給)などの食糧製造・保管や航空機部品製作を扱う工場が鳥栖駅周辺に集中しました。
 一方で、戦争は長期化し多くの男性が徴兵により戦地に赴いたことで、これまで鉄道業や工場での業務を担っていた男性労働者が年々減少していきました。そのため、鳥栖に残っている女性たちが工場や鉄道施設で働くこととなりました。特に鉄道業では、営業・事務系の作業を女性が担うことが増え、車掌を女性が行うこともありました。このように、女性労働者の活躍によって鳥栖が人・物資・輸送の中継地点としての機能を維持していました。
 しかし、昭和20年(1945年)8月11日に鳥栖空襲を受け鳥栖の街は焼け野原となりました。軍需工場も空襲によって焼失し、変わり果てた光景となりました。その4日後の8月15日に日本が降伏したことが玉音放送で国民に公表され、太平洋戦争が終戦を迎えました。
 鳥栖空襲の被害が大きかった藤木町では、水田に爆弾が落ちた際に写真のような「バクダン池」とよばれる巨大な穴がいくつもできました。爆弾は「A N-M64」という種類の爆弾を使用しており、重さは500ポンド(228kg)、鋳銅製で弾体頭部が硬く貫通力が大きいのが特徴です。
 この爆発によってできた穴の大きさは直径10~12m、最深部4~5mです。爆弾の威力がどれだけすさまじいものだったのかが、穴の大きさから分かります。これだけ大きな穴が無数にあったため、すべて埋め戻されたのは終戦から15年ほど経った昭和35(1960)年ころでした。

バクダン池

<藤木町の水田にできたバクダン池>

 

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<焼失した笠井食糧倉庫での畑づくり 後ろの黒煙あたりが鳥栖機関区(現:駅前不動産スタジアム)>

 

現代に残る鳥栖空襲の痕跡

藤木遺跡9区(現:藤木公園)で見つかった防空壕の入口付近に落とされた爆弾跡

 平成12年(2000)に実施した鳥栖駅東土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査で、防空壕跡と爆弾跡が見つかりました。
 爆弾は防空壕の入口付近にて爆発しており、爆弾跡の大きさは直径3.2m、深さ1.7mの大きさでした。この爆発によって防空壕へは約3tの土砂が入り込み、国鉄職員7人と動員学徒6名の計13名の方が犠牲になりました。
 この痕跡が見つかった藤木公園内には、現在13名の犠牲者を供養する頌徳碑が建立されています。碑の側面には当時の詳細な状況がかかれた銘文「此の地ハ昭和20年八月十一日米国機空襲ノ際所記ノ鳥栖電力区職員及ビ動員学徒諸氏ガ職務執行中ソノ直撃弾ヲ蒙リ悲壮ナル戦死ヲ遂ゲタルノ地ナリ依ツテソノ英魂ヲ弔慰シ冥福ヲ祈ルモノナリ」と13名の氏名・年齢が記されています。この内容から、13名のうち10名が10代の若者であったことが分かっています。

 

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〈防空壕跡(写真左)と爆弾跡(写真右)〉

 

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<藤木公園に建立された頌徳碑>

 

長福寺の六地蔵と塀に残る銃痕

 藤木町にある長福寺は、昭和20年(1945)7月28日に起こった空襲と鳥栖空襲にて被害に遭いました。アメリカ軍は当時、日本国内の学校や寺院などの大きな建物は倉庫や工場、兵舎として使用していると考えており、長福寺もその対象とみなされ空襲を受けました。その空襲の痕跡が長福寺の六地蔵と塀に残っています。
 六地蔵は空襲時の爆風によって吹き飛びバラバラになってしまいましたが、戦後に破片が集められ修復されています。しかし、全体的に欠けている部分も多く、特徴である六体の地蔵の中には跡形も残っていない地蔵があります。
 塀については数ヵ所に銃痕跡が残っており、多くが塀を貫通しています。穴の大きさも大小さまざまで、銃痕が一列に並んでいたり一ヶ所に集中した跡もありません。当時の攻撃がどれだけ激しいものだったかをうかがうことができます。
 また、長福寺本堂は8月11日の鳥栖空襲にて攻撃を受け全壊しました。現在の長福寺本堂は戦後に再建されたものですが、塀は当時のまま残されている貴重なものです。

 

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<長福寺の六地蔵>

 

 

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<長福寺の塀>

 

戦時中の生活

 戦時中の生活は制限が厳しく、食料や衣服はすべて切符制になりました。昭和15年(1940)9月には佐賀県内で食料の米穀配給通帳制(農家の生産米をすべて国が買い取り消費者へ配給する制度)が開始されていきました。だんだんと生活用品・農業資材は不足していき、生活すること自体が苦しい時代でした。
 学校教育では、軍国主義の教育が徹底されました。男子生徒は軍事教練による実動的な教育、女子生徒は裁縫などの製造業に関する授業が多く行われました。さらに、長期化に伴い、男子生徒は工場での航空機製作などに勤め、女子生徒にも実動的な教育が課せられるようになりました。
 また、戦時下の日本では土木・工業の熟練工養成が重要視されていきました。佐賀県下では昭和12年(1937)から県立工業高校誘致運動が起こり、佐賀・有田に次ぐ3校目の工業学校として鳥栖工業学校(現在の鳥栖工業高等学校)が昭和14年(1939)4月に開校しました。学生の多くは卒業後すぐに工場に勤めることとなり、軍需工場で働くことができる人材を育てるといった当時の政策が分かります。現代のようになりたい職業や進路を選んだりすることはできない状況でした。
 このように、戦時中の生活は戦争一色で現代の生活とはかけ離れたものでした。毎日の食料も十分になく、その日暮らしの日々が続いていました。昭和18年(1943)には戦時教育令が発令され、学生たちは学校で授業を受けるよりも軍事教練や勤労する割合が多くなっていき、学校教育をまともに受けることができませんでした。

軍事郵便・戦時中の手紙

 戦時中、成人男性の多くは戦地へ徴兵されていき、家族は日本に残る家庭が数多くありました。一度戦地に行くと、いつ戻れるのか、無事に終戦を迎えることができるのかは分からず、1日を生き延びるのに必死な状況でした。
 そのような中、戦地と日本を結ぶものとして「軍事郵便」がありました。軍事郵便とはその名の通り、軍用で扱われる郵便物のことを指します。その中には、戦地にいる兵士が駐屯地から日本にいる家族に向けて送ったハガキがあり、手紙を同封することもありました。軍事郵便は必ず検閲を受け、確認印を押印されたもののみが日本へ送られました。展示しているハガキ(写真左)には、左側中央部に「検閲濟」とかかれた押印があります。内容の多くは家族の生活を心配をする内容や、戦地での生活の様子を記したものでしたが、駐屯地の様子など軍事に関することは検閲の際にふせ字にされていました。情報が外部に漏れないようにしていたことが分かります。

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<軍事郵便(左)・戦時中の手紙(右)>

 

防空頭巾・千人針

 戦時中の衣服は自分の身を守るための機能を重視していました。防空頭巾もそのひとつで、頭部に身に着け突然の空襲に備えて頭や首筋を守るためのものでした。布製のためヘルメットなどと比べると防護性は劣りますが、頭部全体を包んで守ることができる点や、空襲などで火災が起きたりした際は防空頭巾を濡らすことで頭部を保護することができる利点もありました。また、重さもヘルメットなどに比べて軽く着用しやすいため、女性や子どもの大半が着用していました。
 千人針は身近な人が出征する際に家族や親戚、近隣住民などによって作られました。戦いに勝利し、無事に帰国することを祈ったお守りのようなものでした。受け取った兵士は身体に巻き付け戦いに臨んでおり、弾除けの意味も込められていました。
 今回展示した千人針には「祈武運長久」の文字が記されています。「武運長久」とは戦地での無事や成功を意味する言葉で、日本へ無事に戻ってこれるようという思いが込められています。
 千人針を細かくみてみると、文字や柄はすべて玉留めで表現されています。その外側には赤丸がかかれていますが、これは事前に赤丸を記入してどこで玉留めするのかを記しています。千人針はこのような製作方法が一般的であったと考えられています。また、右側には「佐賀縣立鳥栖高等女學校」の文字がかかれています。この千人針は学校で千人針を作る際の見本であったとされています。

 

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<防空頭巾>

 

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<千人針>

 

おわりに

 今回は鳥栖空襲・人々の暮らしの2つのテーマから80年前の鳥栖について展示を行いました。鳥栖が九州の軍事的な中継地点として機能していた点や、当時の生活が非常に困窮していた点を写真・手紙・道具から知り、どれだけ生きぬくことが大変だったかを振り返りました。今回展示したモノは、当時の状況について知ることができる貴重な文化財です。これからも守り、保存しつづけることが重要です。また、戦争を体験した方々も年々減少してきています。80年という月日が経つとともに、戦争は遠い存在のものとなっているのかもしれません。
 しかし、現代を生きる私たちができることは、このような悲惨な出来事を二度と繰り返さないために正しい歴史を後世に伝えていくことです。

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