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企画展「昔、戦争があった-国策写真誌にみる戦時下の日本-」

記事ID:0001812 更新日:2021年3月2日更新 印刷ページ表示
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開催期間

終戦71年企画展
平成28年8月12日~9月16日

終戦71年企画展示(平成28年8月12日~9月6日)の画像

はじめに

平成28年は終戦から71年目となる年です。教育委員会では、遠い日々となった戦争の時代に思いを馳せていただく機会として、平成27年から「昔、戦争があった。」と題する展示をこの時期に開催しています。
本年度は、「国策写真誌にみる戦時下の日本」のテーマで、市が所蔵する戦時中に政府が刊行した写真週刊誌『写真週報』の貴重な実物を紹介します。
ここに展示されたものは、ごく一部の雑誌記事に過ぎませんが、これらを通して戦時下の日本や人々のくらし、さらには戦争の悲惨さや平和の尊さについて考える機会としていただければ幸いです。

『写真週報』とは

『写真週報』は、昭和13年2月から昭和20年7月までの間、内閣情報部(昭和15年12月より内閣情報局へ)が刊行したグラフ雑誌です。1部10銭の価格がつけられ、全国の官報販売書や書店などで購入を申し込むことができました。読者層は男性、特に25歳までの青少年世代が多かったようです。発行部数は昭和16年3月時点で20万部を超えており、他のグラフ雑誌と比較しても圧倒的な部数を誇っていました。
そもそも『写真週報』の刊行は、写真という親しみやすく目を引き付けやすい媒体を使って、当時の日本国民に国策を理解させ、時局意識を植え付けることを目的としていました。発行していた内閣情報局は、国策に関する情報収集や報道及び啓発宣伝、各種出版物や映像、芸能などに対する取締りが職務でした。必然的に『写真週報』の掲載記事には、当時の国家の意向が色濃く反映されることとなります。

「純忠比なし 軍神九柱」 昭和17年3月18日

ハワイ作戦(真珠湾攻撃)で戦死した特殊潜航艇乗員の「九軍神」公表記事。
上段中央は旭村(現在の村田町)出身の広尾彰大尉です。

212号

「防空待避所の作り方」 昭和17年8月5日

防空待避所いわゆる防空壕の設置方法を説明した記事。昭和17年4月18日に東京をはじめ本土各地に散発的な空爆があり、34人が死亡しましたが、この時期はまだ一般国民に空襲に対する恐怖心はありませんでした。

232号

「わが家の防空戦闘」 昭和19年5月3日

空襲に対する備えを写真付きで解説した記事。昭和17年の記事と比較するとかなり具体的な中身となっています。「これは近く私たちが必ず経験しなければならない現実です」とさりげなく書かれており、戦況がひっ迫してきていることを感じさせます。

319号

「この夏も健康で頑張らう」 昭和19年6月28日

夏に向けての健康・体力の維持や伝染病対策の特集記事。空襲に対する備えを写真付きで解説した記事。「手近にある薬草」など現代の私たちが見ても役立ちそうな記事があります。政府刊行物なので意図的に避けられていることも考えられますが、この段階の記事を見る限りでは食糧事情がそれほどひっ迫した状況ではないことがうかがえます。

327号

「サイパン島戦闘経過」 昭和19年7月26日

サイパン島の陥落を公表する記事。約1か月の戦闘の後守備隊の組織的な作戦が終了したのは7月9日です。約30,000人の兵士が戦死し、8,000人以上の民間人が死亡しました。米軍の死傷者は15,126人(うち戦死3,441人)でした。

330・331号

「頭蓋骨を眺める女性のイラスト」 昭和19年8月23日

1944年5月22日付のアメリカの雑誌・ライフに掲載された、太平洋戦線に従軍している恋人より贈られた日本兵の頭蓋骨を眺めている女性の写真を描き写して、敵国人は「鬼畜米英」と人格否定をあおった記事。なお、日本兵の頭蓋骨が「トロフィー・スカル」とされ、多数持ち去られたことは事実で、現在でもアメリカ各地で当時のものが多数発見されています。

335号

「神風特別攻撃隊 敷島隊隊長」 昭和19年11月15日

正式編成による特別攻撃第1号の神風特別攻撃隊敷島隊の隊長関行雄大尉を表紙一面に掲載しています。当局は神風特攻隊の存在を早い段階で公表していますが、生還を期さない体当たり攻撃部隊の創設は国民に驚きとともに一層の悲壮感を与えたものと思われます。なお、敷島隊の零戦6機による攻撃は10月25日で、空母1隻を撃沈し143名が戦死するという戦果を挙げました。

347号

「直視せよ!レイテ攻防」 昭和19年11月22日

前号に引き続き、神風特攻隊の出撃を中心にフィリピン方面の作戦を報じています。レイテ沖海戦では10月23日から25日にかけての戦闘で、戦艦武蔵など戦艦3、空母4、巡洋艦10、駆逐艦9が失われ、連合艦隊は事実上壊滅しましたが、もちろん紙面では全く触れられていません。燃料切れの零戦が着水する様子が掲載されていますが、これは着艦すべき空母が全部失われたためです。

348号

「勝利の油 松根油を増産しよう」 昭和19年11月29日

輸送船がことごとくアメリカ軍の潜水艦に沈められ、シーレーンがほぼ断たれると、いよいよ燃料の不足が深刻化していきました。重油やガソリンの代用に松の根から採集される油(松根油)を生産する様子が紹介されています。普通はこうした記事は防諜上掲載されることはありませんが、そのような余裕がなくなってきたことがうかがわれます。

349号

「防空に身体の準備」 昭和20年1月7日

「耐寒防空体操」を一見ユーモラスに写真付きで解説した記事に、待避所(防空壕)の設置場所や物品専用地下壕の構造、さらには米軍の300ポンド・500ポンド爆弾の威力についての説明を付け加えています。しかし、木造の日本家屋を効率よく焼き払うため米軍が開発した新型の焼夷弾(M69ナパーム焼夷弾・E46集束焼夷弾)の存在は未だ知られていないようです。これが初めて本格的に使用されるのは、8万人以上の犠牲者が出た3月10日の東京大空襲です。

355号

「醜骸を晒す超空の要塞」 昭和20年1月31日

前年秋頃から本土に飛来するようになったB29爆撃機の解説記事。国民一般にまでこの爆撃機について広く知られていたことがわかります。

357号

「応召の準備と心構へ」 昭和20年2月21日

開戦4年目の昭和20年になると、これまでは考えられなかった年齢層の人たちまでが、補充兵として大量に招集・出征するようになりました。今までは「送る側」であったこうした人たちに向けて、応招の準備と心構えについて改めて解説した特集記事です。

360号

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