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企画展「昔、戦争があった-あの日、鳥栖のまちは「戦場」になった-」

記事ID:0001814 更新日:2021年3月2日更新 印刷ページ表示
<外部リンク>

開催期間

終戦72年企画展
平成29年8月11日~9月22日

終戦72年企画展示(平成29年8月11日~9月22日)の画像

はじめに

平成29年で終戦から72年が経過しました。教育委員会では、遠い日々となった戦争の時代に思いを馳せていただく機会として、平成27年から「昔、戦争があった。」と題する展示をこの時期に開催しています。今回はいわゆる「鳥栖空襲」の記録を紹介します。
終戦4日前の8月11日、鳥栖一帯はアメリカ軍の空爆を受けました。20人の将兵と、100人を超える一般の老若男女が犠牲となりました。
戦後の日本は不戦を誓った憲法のもと平和を維持してきましたが、今この時も世界では紛争や内戦が絶えません。そしてその犠牲者の大部分は、常に争いとは直接関係のない一般の人たちです。
この展示を通して、戦争の悲惨さや平和の尊さについて考える機会としていただければ幸いです。

鳥栖空襲とは

昭和20(1945)年8月11日、夏の太陽がぎらつく中、午前10時30分頃から11時頃にかけて、鳥栖市街地(当時は鳥栖町・田代町・基里村)は突如としてアメリカ軍の空襲を受けました。
沖縄の基地から出撃したアメリカ陸軍第7航空軍の2部隊によるもので、最初に第319爆撃群団のA26爆撃機32機が南西および南東方向から侵入し、鉄道施設や笠井食料倉庫(今の鳥栖倉庫)、東町・今泉町の一部、藤木町一帯と高射砲陣地(今の駅前不動産スタジアム北東付近)を空爆しました。続いて10時40分に、西方向から侵入した第41爆撃群団のB25爆撃機48機が日清製粉鳥栖工場、曽根崎町一帯さらには本鳥栖町と永吉町の一部を襲いました。

米軍の侵入方向
〈アメリカ軍機の侵入経路〉

下は、被災者の証言や航空写真による爆弾穴跡の分析等により、爆弾が着弾したと思われる地点を昭和24年に撮影された航空写真に赤丸で記したものです。米陸軍第7航空軍の作戦記録によると、鳥栖空襲では第319爆撃群団(A26爆撃機32機)が47.8トン、第41爆撃群団(B25爆撃機48機)が48トンの計95.8トンの爆弾を投下しましたが、これは500ポンド爆弾換算で380発以上になります。

爆弾の着弾地点

なぜ、鳥栖が狙われたのか

沖縄陥落後の昭和20年7月になると、鳥栖周辺にも頻繁にアメリカ軍の戦闘機が飛来するようになり、機銃掃射による死傷者も出ました。当時の鳥栖は大都市のような無差別爆撃の対象にはされていなかったのですが、操車場や機関区などを有する鉄道輸送の要地であり、火薬製造原料や軍用食料を備蓄していた日清製粉鳥栖工場、航空機部品を製作していた片倉製糸鳥栖工場などの軍需工場が建っていたほか、駅周辺には陸軍の対空陣地が3カ所設営されていました。アメリカ軍はこれらを軍事目標として狙ったとされています。
このため、同日同時刻に空爆を受けた久留米市のような焼夷弾ではなく、爆弾が用いられました。しかし、爆撃手の誤認あるいは技量不足による飛行速度や、投下高度の僅かな読み違いにより、多くの爆弾が目標からそれて隣接する一般集落内で炸裂し、多数の民間人が巻き添えになりました。

アメリカ軍機が撮影した鳥栖空襲時の写真
米マクスウェル空軍基地歴史資料室所蔵/工藤洋三氏提供

爆撃を受ける現在の曽根崎町(米マクスウェル空軍基地歴史資料室所蔵/工藤洋三氏提供)の画像

西方向から侵入して現在の曽根崎町一帯を空爆した、アメリカ陸軍第7航空軍第41爆撃群団の記録写真。爆撃の成果を確認するために、編隊最後尾の上空を飛行するB25爆撃機から撮影された写真です。まさに多数の500ポンド爆弾が炸裂した瞬間がとらえられています。作戦記録によればこの部隊は48トンもの爆弾を投下しています。

発掘調査で明らかになった戦争の痕跡

藤木遺跡9区で見つかった鳥栖電力区詰所跡と防空壕跡

平成12年(2000)に実施した、鳥栖駅東土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査で、古墳時代から中・近世の遺構に混ざって検出されました。
壕の入口付近には、500ポンド爆弾が炸裂した大きな穴があります。大量の土砂が巻き上げられ、この防空壕を押し潰したことで、国鉄職員7人と動員学徒6名の計13名の方が犠牲になりました。

藤木遺跡 全景

藤木遺跡 防空壕跡 藤木遺跡 爆弾跡
〈(左)防空壕跡と(右)入口近くに落とされた爆弾跡〉

防空壕跡に建てられた慰霊碑

頌魂碑。昭和20年12月11日建立。
「此の地ハ昭和20年八月十一日米国機空襲ノ際所記ノ鳥栖電力区職員及ビ動員学徒諸氏ガ職務執行中ソノ直撃弾ヲ蒙リ悲壮ナル戦死ヲ遂ゲタルノ地ナリ依ツテソノ英魂ヲ弔慰シ冥福ヲ祈ルモノナリ」の銘文と犠牲者13名全員の氏名と年齢が刻まれています。

藤木町の慰霊碑

長福寺に残る戦争の痕

機銃弾に貫かれた経典

銃弾に貫かれた経典(長福寺所蔵)の画像

藤木町にある長福寺に大切に保管されているもので、大正8年(1919)に土地の篤信者が先祖菩提で施主となり長福寺に奉納したものです。全600巻からなる大般若波羅密多経の第568巻「理趣分」で、かつては大般若転読会で用いられたようですが、本巻のみが現存し、あとは戦災で失われました。
この経典にはアメリカ軍戦闘機の12.7ミリ機関銃弾が命中した跡があり、端部の弾丸は表紙から7.5センチの厚さまで貫いています。ほかの2つについては鋭利な釘状のものが厚さ4.5センチまで刺さったような痕跡があります。
この銃痕はおそらく、昭和20年7月28日にあったアメリカ軍戦闘機による空襲の際のものと考えられます。この日、沖縄伊江島の飛行場を飛び立ったアメリカ陸軍極東空軍のP47サンダーボルト137機が、鹿児島県鹿屋飛行場、佐賀県目達原飛行場、福岡県大刀洗飛行場のほか、久留米・佐賀の石油貯蔵場所や操車場、倉庫、商業施設、対空陣地その他の目標を、ロケット弾と機銃掃射で攻撃した、とアメリカ側の記録にあります。
学校の校舎や寺院などの大きな建物は、本土決戦に備えて兵舎や倉庫などに使われているとアメリカ軍は探知しており、このため長福寺も機銃掃射の目標とされたようです。8月11日の鳥栖空襲の際にも、長福寺は直撃弾を受け、本堂・庫裏が全壊するなど大きな被害を受けています。

レンガ塀に見られる機銃弾痕

長福寺のレンガ塀山門前のレンガ塀に残された、機銃弾の痕。

鳥栖空襲で壊された馨子(けいす)と六地蔵

馨子 六地蔵
〈(左)仏具である馨子(けいす)は爆弾の破片により穴があいており、(右)石造りの六地蔵は上部が吹き飛ばされている〉

奪われた尊い命

鳥栖空襲による犠牲者は、判明しているだけで、藤木町38名、山浦町2名、本鳥栖町4名、東町9名、曽根崎町24名、永吉町4名(いずれも現在の町名)と、国鉄関係18名(機関区5名、電力区13名、うち学徒動員の生徒が6名)、陸軍将兵20名の合計119名にのぼります。
死因は大部分が爆弾炸裂の直撃による爆死や、爆風で飛散した大量の土砂や瓦礫を受けた圧死です。このほか、民家の全壊36戸、罹災人口は約3,200人とされていますが、負傷者数も含めて詳細な被害状況は戦後の混乱などにより不明のままです。
空襲からわずか4日後の8月15日、戦争は終わりました。

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