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常設展示「国指定史跡勝尾城筑紫氏遺跡-よみがえる戦国時代の山城と城下町‐

記事ID:0039973 更新日:2022年4月5日更新 印刷ページ表示
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勝尾城と筑紫氏

鳥栖市北西部の牛原町(うしはらまち)、山浦町(やまうらまち)、河内町(かわちまち)にまたがる城山(じょうやま)山麓一帯には、戦国武将の筑紫氏が拠点とした勝尾城筑紫氏遺跡があります。筑紫氏は、約500年前の戦国時代後期に、佐賀県東部から福岡県中西部を勢力圏としていました。
その拠点である勝尾城筑紫氏遺跡は、標高約500メートルの位置にある本城の勝尾城を中心に施設が造られています。南の麓には館が置かれ、狭く長い谷を取り囲むように鬼ヶ城(おにがじょう)、高取城(たかとりじょう)、葛籠城(つづらじょう)、鏡城(かがみじょう)、若山砦(わかやまとりで)の五つの支城が構えられています。さらに館からのびる谷筋には、家臣団屋敷や寺社、町屋があり、谷の最も外側には惣構(そうがまえ)と呼ばれる巨大な空堀(からぼり)と土塁を築いて防御をはかっています。
遺跡の規模は東西約2.5キロメートル、南北約2キロメートルの広い範囲に及び、戦国時代の山城と城下町の様子を良く知ることが出来る貴重なものです。およそ230ヘクタールの範囲が国の史跡に指定されています。

 

筑紫氏とは・・・

勝尾城の城主筑紫氏の出自については諸説ありますが、一般的に藤原家の流れをくむ武藤氏の一門と言われています。武藤氏は鎌倉時代源頼朝の命で筑前、豊前、壱岐、対馬の5カ国を総括する鎮西奉行として関東から下向し、大宰府を本拠に少弐氏を名乗ります。この少弐氏は、九州における武家の主領として戦国時代後期(16世紀前半)まで北部九州を中心に勢力を奮いますが、筑紫氏はその有力な一門と考えられています。
筑紫氏が勝尾城に本拠として入城するのが、筑紫満門の代で明応6年頃と考えられており、以後、満門から尚門、正門、惟門、広門までの5代、天正15年(1587)までのおよそ90年間が筑紫氏の在城期間です。
筑紫氏の所領の規模は、鳥栖市を中心に佐賀県基山町、みやき町、福岡市早良区、春日市、筑紫野市、大野城市、小郡市、那珂川町等に及び、その勢力規模は北部九州では龍造寺氏や秋月氏に次ぐものと考えられています。

 

勝尾城の歴史

勝尾城がいつ築城されたかは同時代の史料では不明です。後世に編纂された『北肥戦誌』によると、応永30年(1423)、九州探題渋川義俊の築城と伝えられ、渋川氏が少弐氏との抗争過程において渋川氏によって築城されたようです。その後、少弐氏が東肥前を手中に占めて、勝尾城に入城しますが、周防の大内氏と抗争において少弐氏の有力な家臣であった筑紫氏が大内方に属し、明応6年(1497)、筑紫満門が少弐氏を追い勝尾城に入城します。
弘治3年(1557)、筑前・肥前の支配者であった大内氏が滅び、新たな支配体制を巡り北部九州は争乱の場となり、豊後の大友氏と大内氏の支配を引き継いだ毛利氏との争いとなります。その後、元亀元年(1570)には北部九州諸国は大友氏の支配下に属しますが、天正6年(1578)、日向の耳川合戦で大友氏は薩摩の島津氏により大敗します。これを機に島津氏は九州制覇を目指し、天正12年(1584)の島原の沖田畷合戦では、肥前の龍造寺隆信を下します。
島津氏はさらなる勢いで北進し、天正14年(1586)年7月、勝尾城に2万余りに及ぶ軍勢によって攻められ、勝尾城は落城します。城主の広門は、筑後の大善寺に一時幽閉されますが、同年8月に再びに勝尾城を奪還します。その後、すぐさま豊臣秀吉の島津攻めに従い、天正15年(1587)、島津氏は降伏し、秀吉の九州国割りにより、城主の広門は、筑後国上妻郡の領主として鳥栖を離れます。
なお、その後広門は、秀吉大名として2度にわたって朝鮮出兵に従軍します。文禄の役(1592~93)では小早川隆景の第6軍として戦い明軍に勝利し、その功績により秀吉から感状を贈られます。慶長の役(1597~98)では、倭城の守備についていましたかが、秀吉の死で朝鮮から撤退しました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、広門が石田三成方の西軍に属したことにより、筑紫氏は改易されてしまいます。そして事実上、歴史の表舞台から姿を消すことになります。

 

本城と支城

勝尾城

本城の勝尾城は城山の山頂に位置します。江戸時代の記録である『九州治乱記(きゅうしゅうちらんき)』によると、勝尾城は室町時代の応永30年(1423)に、九州探題であった渋川義俊によって築かれたとされていますが、詳細は定かではありません。その後、明応6年(1497)ごろに筑紫満門がこの城に入り、以後広門までの5代、約90年間にわたって筑紫氏がここを本拠とします。
城は、谷を内側に取り込み、鳥が羽を広げるように曲輪(防御のため人工的に造られた平らな場所)が配置されています。本丸である主郭を中心に、三カ所の曲輪が連結され、大手には出曲輪が築かれています。それぞれの曲輪には、防御のための土塁や石垣などの設備がよく残っており、土造りの城としては最高水準のものと位置づけられています。

勝尾城の石垣  
〈本城を守るための高い石垣〉         

筑紫氏館

勝尾城の南麓にある谷の最も奥に「おたち」という地名が残っています。ここには筑紫氏の館があり、日常の生活を送るとともに、領地支配を行う政治の場ともなりました。館の主要な部分は南北約50メートル、東西約80メートルの範囲と考えられます。筑紫氏が居住した当時は、主殿(しゅでん)や会所、台所などにあたる建物があり、庭園も造られていたと思われます。
敷地の周囲は人工的な崖である切岸の構造で、南東には石積みで造られた虎口を設けるなど、堅牢な造りとなっています。これまでの発掘調査では、瓦や硯、小柄、明銭(みんせん)、漆塗りの椀、輸入陶磁器などのさまざまな生活道具が見つかっています。

発掘調査中の館跡 筑紫氏館の石敷き
 〈発掘調査中の館跡〉

遺物出土状況 出土遺物集合写真
〈瓦や食器などの生活用具が見つかりました〉

筑紫氏館の想像復原図 筑紫氏館跡測量図
〈筑紫氏館の想像復原図(右)と測量図(左) 主殿のほか、厨や庭園なども整備されていたと考えられます〉

葛籠城

勝尾城本城の南東にある丘陵に築かれた支城で、標高126メートルの場所に位置します。別名を津倉城といい、筑紫氏の重臣である島備後守(しまびんごのかみ)が城主であると伝えられますが、詳細は不明です。
葛籠城は戦いの際に、城下の防備の最前線をになうことになります。主郭は東西約30メートル、南北約50メートルの楕円形で、周囲には横堀がめぐり、切岸の一部には石積みがなされています。主郭の南側には、長さ700メートル以上、幅5メートル、深さ5メートルを超える、長大な二重の空堀が造られており、谷を遮断する防備ラインを形成しています。
平成26~27年度の発掘調査では、葛籠城の大手にあたる谷の最も奥の空堀に土橋が造られていることがわかり、主郭への通路の存在が明らかになりました。なお、空堀からは土師器の皿が、堀の近くからは槍として使用していたと思われる小刀が見つかっています。

葛籠城の空堀 空堀の調査中
〈葛籠城の空堀 人の身長と比べると非常に深いことがわかります〉

新町町屋跡

町屋は葛籠城の南東方向にあり、字名は「新町」と呼ばれています。平成元年度に行われた発掘調査で、掘立柱建物跡が見つかりました。建物は、間口が狭くて奥行きが長い、短冊のような形をしたものが、非常に多く建っていたようです。ここでは土師器や陶磁器、火縄銃の玉などが出土しています。
また、この場所には長さ約200メートルの直線道路が通っています。今は農道として使われていますが、地元ではこの道は「勝尾城の登城道」であると伝えられています。発掘調査により、この直線道路を中心にした幅10メートルほどの範囲が、戦国時代の町屋のメインストリートであったことがわかっています。

発掘調査中の新町町屋遺跡 遺構配置図
 〈発掘調査中の新町町屋遺跡 白い丸は建物の柱穴〉

惣構

勝尾城の防備施設のうち、最も外側に造られた堀で、城と城下町を防御するとともに、外の空間と区画する役割をになっています。葛籠城の空堀よりさらに大規模で、総延長は450メートル以上、幅10メートル前後、深さは3~5メートルあります。両岸には幅5メートル、高さ2メートル以上の土塁が造られています。土塁の傾斜面には自然石を用いた石積みが見られ、非常に堅固な造りとなっています。

発掘調査中の惣構の様子 
 〈発掘調査中の惣構の様子〉 

高取城

標高約290m、勝尾城の南の防御に備えて築かれたと考えられます。筑紫広門の弟、筑紫春門の居城と言われていますが、詳細は不明です。主郭は天然の地形のままで狭く、その東西に階段状に小曲輪が連続して造られています。西側の曲輪の端には、幅5メートル、深さ3メートルの堀切が残っています。

高取城遠景 
〈高取城の遠景〉

高取城の主郭 高取城の堀切
〈主郭(左)と堀切(右)〉

若山砦

標高約250m、勝尾城本城の伝二ノ丸から南東にのびる尾根の上に築かれた砦。高取城と対峙して城下を見下ろす位置にあり、いわゆる出城の役割を担っていたと考えられます。南北に100メートルほどの空間を、曲輪によって5つに分けており、北側には幅8メートル、深さ3メートルの堀切が造られています。南端の曲輪には石積み遺構が残っています。天正14年(1586)島津氏により勝尾城が攻められたときに、最後まで落城しなかったと伝えられています。

 

若山砦の遠景 
〈若山砦の遠景〉

若山砦の虎口石垣 若山砦の堀切
〈虎口の石垣(左)と堀切(右)〉

鬼ヶ城

標高約360m、勝尾城の南西側の谷奥に築かれた城です。主郭から北西、南西、南東の3方向に曲輪が造られています。特に南東側の曲輪は非常に広く、南北に土塁が築かれ、枡形の虎口を持つ堅固な造りとなっています。主郭の南側斜面は、尾根と谷を階段状の曲輪と帯曲輪を組み合わせてつなぐ構造になっており、勝尾城本城と同様、高い築城技術のたまものといえます。

鬼ヶ城の遠景 
〈鬼ヶ城の遠景〉

鬼ヶ城の主郭 鬼ヶ城の虎口
〈主郭(左)と虎口(右)〉

鏡城

標高172m、築造の経緯や島津氏の勝尾城侵攻までの経過は不明ですが、発掘調査の成果から、広門の時代には葛籠城や高取城とともに防備を担っていたと考えられます。主郭の中央に小規模な堀切があり、その南東側に土塁を持つ曲輪が造られています。また、主格の東西と北、南東の曲輪の端に、それぞれ複数の竪堀があり、城の防御力を高めています。この竪堀は筑紫氏の城郭郡の中ではほとんど例が無く、中国・近畿地方の城郭に使用例が多いことから、何らかの関連があったと考えられます。

鏡城の遠景 鏡城の主郭
〈鏡城の遠景(左)と主郭(右)〉

勝尾城東出城

勝尾城本城の東側の尾根に造られており、安良川沿いに敵の進入があった際に動きを把握できる位置にあります。自然の地形を活かした曲輪が北東―南西方向に並んでいます。

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