ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 教育部 > 生涯学習課 > 企画展「わたしたちのまち、とすの7つのナゾ」

本文

企画展「わたしたちのまち、とすの7つのナゾ」

記事ID:0040135 更新日:2022年7月22日更新 印刷ページ表示
<外部リンク>

開催期間

令和3年7月21日~8月31日

ポスター

はじめに

鳥栖市には、25,000年くらい前からの長い歴史があります。そのころから今まで、多くの人びとが生活していました。鳥栖市のいろいろな場所で、過去の人びとの生活のなごりを見ることができます。
ここでは、鳥栖市で見つかったさまざまな歴史を示す資料の中から、7つをピックアップして、それらの「ナゾ」を紹介します。

旧石器時代・縄文時代

鳥栖市に人が住み始めたのは、およそ2万5,000年前と考えられています。このころは今より地球の気温が低かったので、海の水が氷河となっていて海面が低く、有明海の底は陸地になっていました。人びとは石の道具を使って狩りをしていました。このころを旧石器時代といいます。
1万3,000年ほど前になると、気候が暖かくなって、日本は今のような形になりました。このころから、粘土を材料にした土器が発明され、木の実や魚、貝などの調理に使われるようになりました。この土器は表面に縄をころがした模様がつくことが多いので、使われていた時代を縄文時代と呼んでいます。

ナゾ(1);縄文時代のとすのナゾ

蔵上遺跡から出土した土偶
〈蔵上遺跡で見つかった土偶〉

これは、蔵上町の蔵上遺跡にあった縄文時代のムラで見つかったものです。粘土で女の人の姿をまねて作ったもので「土偶」と呼ばれています。ところがこの「土偶」は見つかったとき、どれも完全な形ではなく、頭や手足などにわざとバラバラにされていました。なぜ「土偶」はこのようにバラバラにされたのでしょう?

弥生時代

縄文時代のおわりごろ、中国大陸や朝鮮半島から九州の北部に、米作りの技術が伝えられました。食料を手に入れるおもな方法が、狩りや採集から米作りになったこの時代を、弥生時代と呼びます。
米作りが伝わったことにより、農業のための新しい道具が生まれ、食器や調理の道具も変化しました。また、日本全体で人口が増え、人びとのくらすムラは大きくなりました。
ムラにはリーダーが登場し、水田をひろげて米の収穫を増やす工夫をしたり、稲作に必要な水について近くのムラと話し合いをしたりするようになります。ときにはムラ同士のあらそいになり、武器を持って戦うこともあったようです。

ナゾ(2);弥生時代のとすのナゾ

柚比本村遺跡出土銅剣のレプリカ
〈柚比本村遺跡で見つかった銅剣の復元レプリカ〉

甕棺墓
〈甕棺の中から銅剣がみつかった様子〉

これは、柚比町の柚比本村遺跡で見つかった、弥生時代の剣のレプリカです。赤い塗料と玉でかざられた、とてもはなやかなものです。この剣は「甕棺墓」というお墓の中に、亡くなった人とともに入れられていました。剣はもともと戦うための道具です。なぜ、戦いの道具がお墓の中に入れられていたのでしょう?

古墳時代

今から1,700年くらい前、奈良県やその周りの地域で、土をもり上げたお墓がつくられるようになりました。このようなお墓を「古墳」と呼びます。特に地域のリーダーのお墓は、○と□を組み合わせた「前方後円墳」という形でつくられました。この「前方後円墳」が、日本のあちこちに広まってからおよそ300年の間を、古墳時代といいます。日本には今でも、この時代につくられたお墓が30万基くらい残っています。
また、中国や朝鮮半島と人の行き来がさかんになり、日本へ移り住む渡来人も増えました。この渡来人によって、土木工事や建物を建てる技術、織物、養蚕などが各地へ伝えられました。

ナゾ(3);古墳時代のとすのナゾ

岡寺古墳で見つかった巫女形埴輪 巫女形埴輪が見つかった位置
〈岡寺古墳で見つかった巫女形埴輪(左)と見つかった場所(右)〉

これは、田代本町にある岡寺古墳で見つかった「埴輪」というやきものです。岡寺古墳は1,400年くらい前のお墓で、前方後円墳というカギあなのような形をしたものです。この「埴輪」は、マツリを行う女の人、巫女のすがたをモデルにしたようです。このほかにも、さまざまな動物の形をした「埴輪」も見つかりました。さて、どんな動物が「埴輪」にされていたでしょう?

飛鳥・奈良・平安時代

1,500年くらい前、朝鮮半島から新しい宗教である仏教が伝えられました。また近畿地方には「都」が置かれ、その後500年くらいの間、ここで天皇を中心に、貴族たちが政治を行うようになります。
このころは全国をさまざまな「国」や「郡」にわけておさめていました。鳥栖のあたりは「肥前国」の「基肄郡」や「養父郡」と呼ばれました。また「都」でさだめられた法律は各地へ伝えられ、国を運営するために必要な税は各地から「都」へ集められました。
法律の内容を正しく伝えたり、税の中身や量を確めるため、政治にかかわる人びとは文字で記録を残すようになりました。

ナゾ(4);奈良時代のとすのナゾ

蔵上遺跡で見つかった墨書土器 墨書土器の実測図
〈蔵上遺跡で見つかった文字の書かれた食器(左が写真、右は図面)〉

これは、蔵上町の蔵上遺跡で見つかった1,200年くらい前の食器のかけらです。奈良時代の人びとは、このようなやきものを使ってご飯やおかずをもりつけていました。よく見ると、筆で文字が書かれているのがわかります。
この文字は「厨番」や「小麦」「杖」(あとのふたつは今使われている漢字にはありません)であると考えられています。これらの文字は、どんな人びとが、何のために書きこんだのでしょう?

鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代

1192年、源頼朝が征夷大将軍になり、神奈川県の鎌倉に「幕府」を開きます。「幕府」とは武士が政治を行う場所をいいます。これまで天皇やそのまわりの貴族が政治を行っていましたが、鎌倉の幕府をきっかけに、およそ680年の間、武士が国をおさめるようになります。
1338年、新しい「幕府」が京都の室町に置かれました。しかしその後、政治の中心となる将軍や、そのサポート役の立場をめぐる争いが起こり、これがきっかけとなって日本各地で戦いがくりひろげられる戦国時代に突入します。
そのなかで、全国を統一して支配しようという動きを見せたのが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の武将でした。

ナゾ(5);戦国時代のとすのナゾ

勝尾城の模型 勝尾城の様子
〈鳥栖市にある勝尾城の模型(左)と実際の勝尾城の様子(右)〉

これは、城山にある520年くらい前のお城の模型です。このお城は「筑紫氏」という武将の一族の拠点(※活動の中心になる場所)になっていました。山の斜面や谷といった地形を利用して、土塁や堀切といった防御のための施設がつくられており、これらは城山全体に広がっています。このお城は、佐賀城や唐津城とどう違うのでしょう?また、その理由はなぜでしょう?

江戸時代

1603年、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸(東京都)に幕府を開きました。それからおよそ260年の間を江戸時代とよびます。
日本各地に幕府が大名を置き、それぞれの大名に、税を集めることや道・川の土手を整えることなど、責任をもって領地の運営を行わせました。このようなしくみを「藩」といいます。幕府は『武家諸法度』というきまりを定め、いろいろな面で大名を強く支配しました。
このころの鳥栖には「対馬藩」の領地と「佐賀藩」の領地がありました。「対馬藩」の藩主は遠い対馬にいたので、このあたりをおさめるため「代官所」という役所を特別に置きました。またそこには、何人かの家臣を派遣してさまざまな仕事をさせていました。

ナゾ(6);江戸時代のとすのナゾ

田代代官所に関する文書 田代代官所の組織
〈江戸時代の田代に関係するさまざまな史料(左)と田代代官所におかれた役職(右)〉

この冊子は、260年ほど前、田代本町にあった「代官所」という役所で作られた書類です。この中には、代官所につとめていた人のメモがあり、日づけと、その日にどのような仕事をしたのかが記録されています。「代官所」では、この地域をおさめるためにさまざまな仕事を行っていました。ここにあげているのは、このころの「代官所」にあった役職(※仕事の役割)の名前です。それぞれ、どのような仕事を行っていたのでしょう?

明治・大正・昭和時代

1868年、江戸幕府に代わって、天皇を中心とした政府が政治を行うようになりました。新しい政府は、西洋(※アメリカやヨーロッパの国々)の知識や技術をどんどん取り入れ、日本が世界に通用する国になるための政治を行いました。
西洋式の軍隊をつくるため兵役を義務にし、機械を取り入れた工場で作ったさまざまな製品を外国へ売って、国の力を強めていきました。人びとの生活も、洋服や靴、牛や豚の肉を使った料理、鉄道や自動車での移動など、大きく変わりました。
しかし、すべての人びとが新しい豊かな生活ができたわけではありません。世界的な不況や外国との関係、地方の貧しい生活への不満などから、日本はやがて戦争への道を歩み始めます。

ナゾ(7);明治時代のとすのナゾ

M33鳥栖駅今の鳥栖駅
〈明治36年に建てられたとされる鳥栖駅の古写真(左)と今の鳥栖駅(右)〉

この写真は、120年くらい前の鳥栖駅と今の鳥栖駅です。鳥栖駅は明治22年(1889)年に開かれました。北九州~熊本の路線から、西の長崎方面へ行く路線へ分かれるポイントになっていたので、たくさんの人や荷物が行き交うにぎやかな駅でした。ところがこの駅は、わずか15年で建てかえられ、今の場所に移されてしまいます。利用者の多かった鳥栖駅が、なぜ移動してしまったのでしょう?

終戦、そして現在の鳥栖へ

第二次世界大戦のあと、日本各地でより良いまちづくりを行えるよう、市・町・村の体制づくりが進められました。鳥栖では、1954(昭和29)年4月に鳥栖町・田代町・基里村・麓村・旭村の2つの町と3つの村があわさり、今の鳥栖市がスタートします。

合併調印式の様子
〈鳥栖市になるための合併調印式の様子〉

鳥栖市は、九州の東西南北へ移動するのに便利な場所なので、いろいろな会社に「工場や倉庫を建てませんか」と呼びかけました。このころは鉄道で物を運んでいましたが、鳥栖駅がとても便利なところに目をつけ、多くの会社が鳥栖市に進出しました。
その後、道路が広くなったり、高速道路ができたりして、九州をつなぐ場所にある鳥栖市はますます便利な場所になっています。また、蔵上、弥生が丘などにはたくさん家が建てられ、今では74,023人(2021年7月時点)の人びとがくらしています。

鳥栖ジャンクションを上空から見た様子 九州新幹線の新鳥栖駅
〈九州の高速道路をつなぐ鳥栖ジャンクション(左)と九州新幹線新鳥栖駅(右)〉

皆さまのご意見を
お聞かせください

お問い合わせやご提案などは、メールやWEB提案箱をご利用ください。

お求めの情報が充分掲載されていましたでしょうか?
ページの構成や内容、表現はわかりやすかったでしょうか?
この情報をすぐに見つけられましたか?