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企画展「みんなの町の、お宝しょうかい!」

記事ID:0052821 更新日:2022年8月30日更新 印刷ページ表示
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開催期間

令和4年7月23日~8月28日

令和4年度企画展ポスター

はじめに

みなさんは「埋蔵文化財」という言葉を聞いたことがありますか? この言葉は「埋蔵」と「文化財」というふたつの言葉が合わさって出来ています。それぞれの言葉には、次のような意味があります。
「埋蔵」=「地面に埋まっている」
「文化財」=「人間が生活していく中で、生まれた物・事」
つまり「埋蔵文化財」とは、「今は地面に埋まっている、過去の人びとが生活の中で生み出した物」をさします。
鳥栖市には、今から2万5,000年前から人が住むようになりました。それから現在まで、たくさんの「埋蔵文化財」が生み出され、私たちはその上に道路や家をつくって生活しています。
今回の展示では、これまでに鳥栖市で見つかった「埋蔵文化財」のうち、ちょっとめずらしい8つのお宝を紹介します。

若葉小学校区のお宝 『×の形をした石の板』

今から3,000年くらい前、縄文時代の人びとは、山や野原に住む獣をつかまえ、木の実や野草を集めて食料にしていました。自然の恵みをたよりに生活を送っていたので「毎年豊かな環境が保たれますように」との願いをこめて、マツリの儀式を行っていたようです。
鳥栖市では、弥生が丘や陸上競技場の北側に縄文時代のムラがあったことがわかっています。ここでは、狩りに使う矢の先の部分や動物の肉を加工するための石の道具、煮炊きに使う土器など、生活の道具がたくさん見つかりました。
また、粘土で作った人形の「土偶」や丸くて平べったい「円盤」、×の形をした板など、マツリに使われたと思われる特別な道具もありました。

元古賀遺跡の×字形石製品
 〈元古賀遺跡で見つかった×の形の石の道具〉

 

大きな石を薄く割り、石同士を叩き合わせてこの形を作っています。
「木を加工する斧」「土を耕す鍬」などの説がありますが、どちらにも使いやすそうには見えません。マツリ用の特別な道具と考えられますが、なぜ×の形なのかは謎です。

鳥栖小学校区のお宝 『ガラスの玉と水晶の玉』

今から2,200年くらい前、九州の北部では亡くなった人を葬るとき、大きな土器を棺にして土の中に埋めていました。これは他の地方では見られない特別な方法で、棺にした土器は煮炊きに使う甕(かめ)に似た形をしていることから「甕棺墓(かめかんぼ)」と呼ばれています。
甕棺は、葬られた人の性別や権力のある・なしによって形が変わることはありません。ただし玉や武器、鏡など、その人の身分によって、弔いの儀式(お葬式)のとき、中に入れるものが異なります。これを調べることで「どのような人が葬られているのか」を推理することができます。
弥生時代の鳥栖市は、あちこちにムラがつくられ、発展している地域でした。そのため、甕棺墓もさまざまな場所で見つかっています。

内畑遺跡の甕棺墓
〈内畑遺跡で見つかった甕棺墓〉

ガラス玉と水晶玉
〈甕棺墓の中にあったガラス玉と水晶玉〉


この青いガラス玉と透明な水晶玉は、鳥栖小学校の隣にある内畑遺跡で見つかりました。甕棺の中に、刀子という工具とともに入れられていたのです。
弥生時代の九州では、水晶はとてもめずらしく、佐賀県や福岡県ではほとんど見つかっていません。このお墓に葬られた人は、一体どこで手に入れたのでしょうか。

旭小学校区のお宝 『800℃の金属を入れる鋳型』

今から2,100年くらい前、日本に金属の道具を作る技術がもたらされました。金属製品を作るには、まず原料である鉱石を手に入れ、そこから金属の成分を取り出します。これを高い温度で溶かし、「鋳型(いがた)」という熱に強い材料で作った型に流し入れます。冷えて固まったあとは、型からはみ出た部分を切り取り、全体を磨いて光沢を出します。
石の道具や土器を作るのはそれほど難しくありませんが、金属製品は、高い知識や技術を持った特別な職人でなければ作ることが出来ませんでした。
鳥栖市では、江島町の本行(ほんぎょう)遺跡や柚比(ゆび)町の安永田遺跡で、金属製品を作る職人が活躍していたようです。武器の形をしたものや工具など、さまざまな種類の鋳型が見つかっています。

江島で見つかった鋳型
〈江島町のあるお宅で見つかった鋳型〉
 

この石の鋳型は、長い間「弁才天さんが彫られた石」として伝えられていたのですが、よく洗って観察したところ、「銅戈(どうか)」という武器の鋳型であることがわかりました。
どうやら、最も広がった部分が弁才天の着物のすそに、持ち手に取り付ける「茎(なかご)」の部分が足に見えていたようです。

弥生が丘小学校区のお宝 『小さな壺の付いた大きな壺』

今から1,500年くらい前、日本の多くの場所では人が亡くなったとき、土を盛り上げて造った「古墳」というお墓に葬っていました。
お墓の中には、アクセサリーや武器など、亡くなった人の身の回りの物を一緒に入れる習慣がありました。また、弔いの儀式(お葬式)には、食器や壺などを使っていたようです。
鳥栖プレミアムアウトレットのところでは、円墳という丸い山の形をした古墳が37基、発見されています。ここの古墳には、鉄のやじりや弓のパーツ、鉄刀、鉄鎌、小さなガラス玉、土師器・須恵器という種類のやきものなどが入れられていました。須恵器の中には、大きな壺に小さな壺がくっついた「子持壺」と呼ばれる形のものがありました。

永田古墳の子持ち壺 
〈永田古墳群で見つかった子持ち壺〉
 

これは「永田古墳群で見つかった」と伝えられてきた子持壺で、鳥栖市で見つかっているのはこの1つだけです。
大きな壺と小さな壺の両方に底があり、どちらにも何かを入れることが出来ますが、出し入れが難しいので、使うためではなく、古墳に飾るためのものと考えられます。

基里小学校区のお宝 『屋根の守り神』

今から1,400年くらい前、朝鮮半島から日本へ 仏教とともに、屋根に乗せる瓦がもたらされました。全国に仏教を広めるため、地方ではそこを治める役所(国衙(こくが)・郡家(ぐうけ))とお寺を一緒に建てるようになり、瓦を作る技術が各地に伝わっていきます。
人びとが暮らす家はわら葺きや板葺きの屋根でしたが、役所やお寺の建物は瓦葺きで造られました。水にも火にも強い瓦を使うことで、建物を大雨や台風、火事から守れるようになったのです。
このころの鳥栖市は「肥前国」の「基肄(きい)郡」、「養父(やぶ)郡」と呼ばれていました。これまでの発掘調査で見つかった建物の跡や食器などから、弥生が丘のあたりに基肄郡を治めた役所が、新鳥栖駅の近くに養父郡を治めた役所があったと考えられています。

現代の屋根瓦 本原遺跡の瓦 
〈現代の瓦葺き屋根と発掘で見つかった奈良時代の瓦〉
 

原町にある本原(ほんばる)遺跡では、丸瓦という形の瓦のかけらが発掘調査で見つかっています。布の上から粘土の板を貼り付けて作るため、その痕が残っています。
完全なものは左の写真のように、筒を縦半分に切った形をしています。
本原遺跡は郡家でもお寺でもありませんが、瓦が見つかるということは何か特別な建物があったのかもしれません。

鳥栖北小学校区のお宝 『海を渡って来た壺』

九州は朝鮮半島や中国に近いため、むかしから活発に人や物が行き来していました。今から800年くらい前には博多が中国との貿易の拠点になり、その後およそ400年間、中国のやきものを中心にさまざまな品物がやりとりされました。
海外からもたらされた物や文化は、博多だけでなく九州全体に広がり、その影響は博多から35キロメートルも離れた鳥栖市にもおよんでいたようです。
また鳥栖市は、「西海道」という古くからの道で大宰府、肥前国(佐賀・長崎県)の各地、筑後国(福岡県南部)やそのさらに南にある肥後国(熊本県)とつながる交通の要でした。また筑後川からは有明海を通って薩摩国(鹿児島県)に行くことも出来ました。博多に入った海外の物や文化は、このルートを通って南九州へ伝えられたのかもしれません。

西浦遺跡の壺 壺の出土状況
〈西浦遺跡で見つかった輸入品の壺、溝の中に寝かされていました〉
 

この大きな壺は、大正町にあった戦国時代の村の跡で見つかりました。
「粉青(ふんせい)沙器(さき)四耳壺(しじこ)」というむずかしい名前がついています。
外側は青みがかった白に見えますが、タテ・ヨコに線で模様が入っているのが特徴です。
これは500年くらい前、朝鮮半島で作られた製品で、貿易によって日本に持ち込まれた品物が、何らかの理由で鳥栖へやって来たと考えられます。

麓小学校区のお宝 『武将の身を守る鎧』

今から550年くらい前、京都で幕府の跡継ぎをめぐる争いが起こったのをきっかけに、全国各地で戦いが繰り広げられるようになります。この時期は戦国時代と呼ばれ、九州でも、幕府の役人であった渋川氏や少弐氏、大友氏、島津氏などが九州の支配権を手に入れるために争っていました。
鳥栖市の城山には勝尾城という山城がありましたが、500年ほど前、筑紫氏という武将がここに入って領地を治めるようになります。筑紫氏の勢力は、一時肥前国(佐賀・長崎県)から筑前・筑後国(福岡県)、豊後国(福岡・大分県)までおよびました。
しかしのちに、九州全土を制圧しようとする薩摩国(鹿児島県)島津氏の軍勢にやぶれて、勝尾城は落とされ、領地も失ってしまいます。

勝尾城筑紫氏遺跡の鎧破片
〈勝尾城筑紫氏遺跡で見つかった鎧のさまざまなパーツ〉
 

勝尾城筑紫氏遺跡という戦国時代の山城の跡では、鎧や兜の破片が見つかっています。
筑紫氏が活躍したころは槍や鉄砲を使う新しい戦い方が広まった時代で、合戦のとき身に着ける鎧・兜もそれに合わせて変化しました。より硬く強い鎧にするため鉄の部分を増やし、部品のサイズも大きくなっています。

田代小学校区のお宝 『肥前で作られた新しいやきもの』

今から450年くらい前、石の粉を材料にした「磁器(じき)」という種類のやきものが、肥前国(佐賀・長崎県)で作られるようになりました。このやきものは産地の地名を取って「有田焼」と名づけられました。
それまでのやきものより薄くて軽く、丈夫な有田焼は、遠い大坂(大阪府)や江戸(東京都)へも広がっていきます。それだけでなく、江戸時代に唯一海外へ開かれていた長崎を経由して、東南アジアやヨーロッパへも輸出されました。
有田焼には、人びとが普段の生活で使うものもあれば、幕府の将軍へ贈られるものまで、さまざまな種類があり、それぞれ別の職人たちに作らせていたことがわかっています。鳥栖市でも、江戸時代の村や役所の跡からたくさんの有田焼が見つかっています。

田代代官所の皿 田代代官所の香炉
〈田代代官所で見つかった上等な有田焼〉
 

今の田代小学校の場所には、江戸時代に今の基山町や鳥栖市の一部を治める「代官所」という役所があり、税を集めたり遠くから来た役人をもてなしたりしていました。ここからは、代官所に勤めた人びとが使っていた、さまざまな道具が見つかっています。
食事には、肥前国の名産品であったやきもの、中でも特に美しい色や絵柄の高級品を使っていたようです。

おわりに

今回の展示では、8つの場所で見つかった「埋蔵文化財」というお宝を紹介しました。ガラス越しではわかりにくいのですが、どのお宝も近くで見ると、作ったときの道具の痕や、使いこんですりへった痕などがあります。
どのような宝が残っているかを調べると、むかしの人びとが日々の生活で、どのようにこれらを作り、使っていたのか、知ることができます。写真に撮影されたり、文字の記録が残されたりしていない時代や場所のことでも、知ることができるのです。こうして過去のことを調べる学問を「考古学」といいます。
鳥栖市には、「埋蔵文化財」の残っている場所が、今わかっているだけで200ヵ所くらいあります。実はわたしたちにとってとても身近な存在なのです。
いつも暮らしている鳥栖のまちの下に、どんな過去がかくれているのか、調べてみませんか?

 

 

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