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企画展「平成26年度発掘調査成果展―埋もれた鳥栖の歴史的文化遺産―」

記事ID:0053342 更新日:2022年12月19日更新 印刷ページ表示
<外部リンク>

開催期間

平成27年7月1日(水曜日)~7月31日(金曜日)

H26成果展会場風景

はじめに

「埋蔵文化財」とは地下に眠る文化財のことで、その場所を遺跡(埋蔵文化財包蔵地)と呼びます。鳥栖市内にはおよそ190カ所(注・平成27年7月時点)の遺跡が登録されています。
これらは「国民共有の財産」と位置付けられており、法律で保護が義務付けられています。
可能な限り現地で保存して次の世代に伝えていきたいものですが、開発などで困難な場合は、発掘調査を行い、その記録を保存するという形で開発と文化財の保護との調整を行っています。
平成26年度は、元町の内畑(うちはた)遺跡、姫方(ひめかた)町の姫方遺跡、儀徳(ぎとく)町の儀徳遺跡の3カ所で発掘調査を実施しており、弥生時代の墳墓群や環濠集落、近世の集落跡が確認されています。
本展が市内に所在する歴史的文化遺産に触れる機会になりますとともに、郷土の歴史や文化財に対する理解の一助となることができれば幸いです。
なお最後になりましたが、文化財保護にご理解とご協力をいただきました地権者のみなさま、そして発掘作業や整理作業に従事された方々に厚くお礼申し上げます。

1.姫方遺跡の調査

遺跡は、姫方町の本川川(ほんごうがわ)右岸(西側)、標高約17mの低位段丘上に立地し、調査地点は肥前国風土記にも記載されている姫古曽神社の約150m北に位置します。
この遺跡は過去に古墳時代の集落跡が調査されています。 

姫方遺跡の全景
〈姫方遺跡を上空から見た様子〉

今回の調査地点(約250平方メートル)では、弥生時代後期(約1850年前)の集落跡を検出しました。遺構は溝2条、時期不明の住居跡1軒を数えます。
調査範囲が狭いため、詳細については不明な点が多いですが、溝の規模、地形、周辺地区の歴史的状況から、姫方集落内に環濠集落が展開している可能性が高いと判断しています。
溝1は幅2m、深さ1m、溝2は幅0.8m、深さ0.5mと残りは良くありませんが、溝の断面形状は逆台形及びU字形です。
また掘り直された形跡があり、長期間にわたり使用されていたことがわかります。

溝からは土器が多数出土しましたが、中には筑後川以南で多くみられる台付の甕や壺、また東九州(豊前地方)地域の特徴をもつ高坏が出土するなど、当時の地域間交流の様子を知ることができます。
住居跡からは刀子1点が出土しています。

弥生時代の溝 溝から出土した弥生土器
〈左:弥生時代の溝、右:溝から出土した弥生土器〉

2.儀徳遺跡の調査

遺跡は、儀徳町の朝日山から南に延びる低位段丘の西先端付近に位置します。この遺跡は、過去に弥生時代の墓地跡が調査されています。
今回の調査地点(約2000平方メートル)でも、主に弥生時代の墓地跡を検出しました。
確認した遺構は、弥生時代の甕棺墓30基、土壙墓(どこうぼ)52基、石棺墓11基と土坑19基です。

儀徳遺跡の甕棺墓 儀徳遺跡の石棺墓
〈弥生時代の甕棺墓(左)と石棺墓(右)〉

これらは、甕棺墓や土壙墓を中心とする中期(約2100年前)と、石棺墓を中心とする後期(約1900年前)の2つの時期に分かれますが、
すべての墓がほぼ同じ方向で列状に埋葬されています。
約200年もの隔たりを経て再び墓地が営まれていることになりますが、この地が「昔からの墓域」として当時の人々に認識されていたものとみられます。

棺に使われていた土器〈棺に使われていた土器〉

これらの墓の中には、青銅製武器(細形銅矛)の先端部分、あるいは逆に先端部分が欠けた石剣が出土し、
「戦いの犠牲者」を葬った可能性のある中期の土壙墓や、鉄製の矢じり(鉄鏃・てつぞく)を副葬した後期の石棺墓(せっかんぼ)があります。

土壙墓と石棺墓の副葬品〈土壙墓と石棺墓の副葬品〉
弥生時代中期(約2000年前)の71号土壙墓からは、青銅製の細形銅矛の切先、切先を欠いた石製の剣、弥生土器の壺などが出土しました。
銅矛の切先は近くの村田三本松遺跡のほぼ同時期の甕棺墓からも出土しており、戦いの際に折れたものと考えられています。
壺は墓に供献されていたものと思われます。
弥生時代後期(約1800年前)の46号石棺墓からは鉄製の矢じりが1点出土しています。
中期までは石で作られた「石鏃」が主でしたが、後期になると鉄製の増加が見られるようです。

なお、鎌倉時代の土坑も確認されており、瓦器碗(がきわん)が出土しています。

中世の食器である瓦器椀〈中世の食器である瓦器椀〉

3.内畑遺跡の調査

遺跡は、元町の轟木川左岸(東側)の河岸段丘上に立地します。
調査地点は遺跡のほぼ中央に位置し、江戸時代の長崎街道沿いに当たります。
この遺跡は、過去に弥生時代の墳墓跡や古墳時代の集落跡が調査されています。
今回の調査地点(3区約300平方メートル、4区約500平方メートル)では、弥生時代と江戸時代の集落跡を検出しました。
遺構は住居跡10軒、土坑2基、貯蔵1基を確認し、弥生時代中期後半~後期前半(約1800年前)にかけて集落が営まれていることが明らかになりました。

内畑遺跡を上空から見た様子
〈内畑遺跡を上空から見た様子〉

また、調査地点は江戸時代から瓜生野(うりゅうの)村の集落の一部であったことが当時の絵図から読み取ることができますが、
これに相当するとみられる江戸時代の溝跡を確認しました。
深さ約50cmで、3区では南北に直線的に、4区では鍵形に屈曲するようで東西10mを検出しました。

江戸時代の溝、さまざまなものが埋まっているのが見える 江戸時代の陶磁器
〈左:江戸時代の溝、右:溝から出土した食器や生活道具〉

ここから出土した食器や調理具等に使用した陶磁器片や火舎(かしゃ・火鉢のこと)片、瓦片等から当時のくらしの様子を知ることができます。

近代のガラス瓶
〈発掘で見つかった近代のガラス瓶〉

ここに展示したガラス瓶4点は、どこにでもあるような瓶と思われるかもしれませんが、実は今から100年くらい前のものです。
左の2点は国産のインク壺はペンや万年筆用のものです。
明治41年(1908)に公用文書が墨書からペン筆記に変更されたこともあり、大正時代になると国産のペンや万年筆が本格的に普及し始めます。
その頃にインクメーカーが乱立しますが、左の小瓶もそのひとつです。
ペンや万年筆を常用する職業や学生の住居があったことが想像できます。
右の2点は現在でも販売されている「味の素」の瓶です。
当時は薬瓶と同じようなデザインで明治42年(1909)に40銭で発売されました。
しかし、価格の割高感などから消費者になかなか浸透しなかったといいます。新しいモノ好きの人がいたのでしょうか。
これらのガラス瓶から、筆記の主流が墨と筆からペンとインキに移行し始めた大正時代の鳥栖(当時は鳥栖町)の生活の一部をうかがうことができます。

 

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