本文
企画展「平成21年度発掘調査成果展」
開催期間
平成22年7月27日(火曜日)~8月1日(日曜日)
はじめに
鳥栖市には、地下に眠る「遺跡」が多く、過去には柚比町の安永田遺跡から銅鐸の鋳型が出土し、「教科書を書き換える発見」として連日、報道されたこともあります。
遺跡は、可能な限り次の世代に残していきたいものです。
そのため開発を行う際には遺跡を保護し、どうしても保存できない場合は、発掘調査を実施し記録保存を行うことが義務づけられています。
今回展示している「上天(かみあま)遺跡」「薮原遺跡」などから出土した遺物もこのようなことから発掘されたものです。
今回の展示会は、おもに古墳時代の遺物を中心にして展示しております。
この展示会が地域の文化財に対してご理解をいただき、学術文化の向上に役立てば幸いです。
なお最後になりましたが、文化財保護にご理解とご協力をいただきました地権者のみなさま、そして発掘作業や整理作業に従事された方々に厚くお礼申し上げます。
[おさえておこう!]発掘調査の専門用語
遺構(いこう)
地中に埋もれている住居や溝。また地中ではなく、盛り土などを用いた古墳の墳丘など、土木構造物で地上に残されているもの。
遺物(いぶつ)
人類が製作し、残した土器や石器など道具の総称。
竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)
地面を円形や方形に掘りくぼめ、その中に複数の柱を立て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、葦などの植物で屋根を葺いた建物のこと。
竈(かまど)
穀物や食料品などを加熱調理する際に、火を囲うための設備。古墳時代後期よりあとの竪穴式住居に備え付けられた。
土壙墓(どこうぼ)
土を掘りくぼめて穴をつくり、そこに人の遺体を埋葬したもの。日本ではおもに縄文時代から近世にかけて使用されていた墓の形態。
土坑(どこう)
土を掘りくぼめた穴。
須恵器(すえき)
5世紀になると朝鮮半島から窯(かま)とロクロの技術が伝わり、須恵器という青灰色の焼き物が登場する。
1100から1200度という高温になる窯を使って焼くため、硬く、水もれの少ない土器ができる。
土師器(はじき)
3世紀ごろから使用された赤焼きの土器のことで、日用の壺、煮炊きの甕、物を盛る坏(つき)や高坏などに使用されていた。
屋外の地面を掘りこんだ土坑やわずかな窪みに土器をならべ、燃料を積み上げて焼いた。
甑(こしき)
古代中国を発祥とする、米などを蒸すための土器。
提瓶(さげべ)
壺型の土器をおしつぶしたような形で、かぎや輪の吊手があり、現在の水筒のような携帯用の容器。
平瓶(ひらべ)
提瓶と同じく、いずれも液体を運ぶもの。
坏・蓋(つき・ふた)
食器類として使用されたもの。坏は今の茶碗や皿などにあたるもので、蓋のつくものとつかないものがある。
1.上天(かみあま)遺跡
大木川左岸地区の標高32mの中位段丘上に立地しています。
今回の調査面積は約600平方メートルです。
遺跡は、古墳時代・中近世の遺構(いこう)で構成されています。
古墳時代の土坑(どこう)、住居跡と、中世から近世にかけての溝、墓などを確認しました。
〈上天遺跡 全景〉
住居跡は小型の方形で、床面積約7平方メートル、土坑は楕円形のものが見つかっています。
〈古墳時代の食器である、須恵器の杯蓋(左)と杯身(右)〉
中近世の遺構の中心は溝です。
発掘した地点は、江戸時代の長崎街道に置かれた田代宿の一部にあたり、この宿の初期の区割りと思われます。
また、この場所の南側には、浄土真宗本願寺派「筑紫御坊」が立地していたとされ、これとの関連もうかがえます。
〈江戸時代の101号溝〉
〈溝から出土した江戸時代の瓦(左)と陶磁器(右)〉
2.藪原遺跡
大木川左岸地区の標高32mの中位段丘上に立地しています。
調査面積は約600平方メートルです。
周辺では、過去に5回の発掘調査が行われ、弥生時代から中世にかけての遺構と遺物が見つかっています。
今回の発掘調査では、古墳時代後期から奈良時代の住居跡が7軒、土坑7基、中世の溝が3本、確認されています。
〈上空から見た藪原遺跡、四角いものが住居跡〉
遺跡は後世に上部を削られており、残りは余り良くありませんが、須恵器・土師器・ガラス玉などが出土しました。
〈住居跡(左)とたくさんの遺物が見つかった土坑(右)〉
〈発掘調査で見つかった須恵器と土師器(左)、漁の網につける土製のおもり(中央)、ガラス玉(右)〉
中世の溝があったことから、ここに屋敷が存在した可能性もあります。
この遺跡の東側を走る国道34号は、古代官道の西海道の西路と推測されており、官道と関係した集落の可能性もあります。