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企画展「とす古代人の宝物」

記事ID:0053583 更新日:2022年12月27日更新 印刷ページ表示
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 開催期間

平成27年5月2日(土曜日)~6月30日(火曜日)

会場風景

はじめに

「宝物」といえば、どのようなものを思い浮かべられるでしょうか。
高価なもの、そうでもないもの、値段では計れないもの、心の中にあるもの、など、価値観が多様化した現代では様々なかたちの「宝物」が存在します。
しかし古代の日本では、「宝物」というものは、政治的・宗教的権威の象徴として取り扱われる「威信財(いしんざい)」でした。

ここで展示している、とすの古代人たちが大切にしていた鏡・玉・剣に代表される「宝物」たちもまた、単に自分の身を飾ったり、身近に置いておいたりするものではありませんでした。
これらの多くは、交易などで自らが求めて手に入れたものではなく、自分よりも上位の存在から与えられたものと考えられています。
つまり、当時の「宝物」は、それらを所有して、人々に示したり身に着けたりすることによって、地域社会の中で自らの存在を権威づけるための道具であったのです。
なお「宝物」は、一方で鏡、玉、剣などは宗教的な性格をも帯びて取り扱われたことが考えられていますが、古墳時代中期以降の祭祀では、石や土で作った模造品を榊(さかき)の枝葉に張り付けて使用するようになっていました。

1.柚比本村遺跡で見つかった
  赤漆玉鈿装鞘銅剣(あかうるしぎょくでんそうさやどうけん)

装飾された剣の出土状況のレプリカ 装飾された弥生時代の剣のレプリカ

約2100年前の甕棺墓の中から見つかりました。「弥生時代の最高の工芸品」といわれるまさに「宝剣」です。
緑色の玉を規則的に並べて四層の赤漆を塗り重ねた鞘は、当時の工芸技術水準の高さを知るだけでなく、日本の伝統的な漆工技術が、縄文時代から弥生時代を通じて、いかに形成発展してきたかを具体的にたどることができる貴重な資料です。

2.内畑遺跡で見つかったガラス製勾玉・小玉

内畑遺跡で見つかったガラス小玉と勾玉

鳥栖小学校校庭東側の高台から検出された、1950年前の甕棺墓に副葬されていました。
ガラス製の勾玉2、小玉1,969点からなり、3~4重にして首にかけていたようです。
ガラス製勾玉は半ば白く風化していますが、透明感のあるエメラルドグリーンの色調が微かに残ります。

 

3.藤木遺跡で見つかった四葉坐内行花文鏡(しようざないこうかもんきょう)

藤木遺跡で見つかった中国製の鏡

後漢時代(1世紀後半~2世紀前半)の中国で製作され国内にもたらされた青銅製の鏡で、背面中央のヒモを通す突起の周囲(鈕座 ちゅうざ)に四つ葉を配し、さらに周囲を8等分した円弧で飾るところから四葉座連弧文鏡といもいわれます。
弥生時代の社会では、中国製の鏡を手に入れることは特別なステイタスを示すものでした。
この鏡は、弥生時代後期後半の鳥栖地域にいた首長クラスの人が権威の象徴として所持していたものです。
現在のベストアメニティスタジアム南側入口付近の地点で発見された墓の中に副葬されていました。
埋葬直前にわざと2つに割って被葬者の頭部左側に重ねて置いた状態でみつかっています。

4.神辺町で見つかった滑石製子持勾玉(かっせきせいこもちまがたま)

神辺町で見つかった子持ち勾玉

子持勾玉とは滑石で作られた大型の勾玉の表面に勾玉状の小さな突起があるもので、5世紀中ごろに出現し7世紀まで作られました。
これは古墳時代中ごろ(約1550年前)のものと考えられます。
もともと勾玉は縄文時代には呪術的な性質を持っていましたが、弥生時代、古墳時代には威信財としての性格が強くなります。
しかし一方で祭祀の中でも勾玉が使用されていたことが、こうした一見不思議な形をした勾玉が製作されていることから想像できます。
この特異な形態から、玉のもつ霊力と増殖に関連する呪術に使われたのではないかと考えられています。

5.古墳時代のさまざまな首飾り

古墳時代の首飾り
(左)牛原前田遺跡で見つかった水晶製切子玉
(中央)立石惣楽遺跡で見つかった碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)とガラス製小玉
(右)深底古墳群で見つかった石製小玉

6.牛原原田遺跡で見つかった古墳時代のイヤリング(耳環 じかん)

牛原原田遺跡で見つかった耳環

金メッキや銀メッキで仕上げています。地金は鉄や銅ですが中には金銀無垢あるいは銀板をパイプ状にして軽く作ったものもあります。

7.鳥栖のさまざまな場所で見つかった玉類

勾玉 
管玉 
丸玉、小玉

勾玉の材質はヒスイ、碧玉、水晶、メノウ、滑石です。
管玉は碧玉製とガラス製、丸玉や小玉はメノウ製とガラス製のものがあります。
糸で繋いでネックレスとして使用したと考えられます。

8.永田古墳群で見つかった腕輪(金銅釧 こんどうくしろ)

永田古墳群で見つかった腕輪

金メッキで仕上げた銅製のバングル(留め金の無い腕輪)です。

おわりに ~アクセサリー文化の終息~

古墳時代が終わるころ、装身具は忽然と姿を消しました。
奈良時代以降、西洋文化が流入する明治時代になるまでの約1100年間、一部地域の例外を残して、人々は自分の身をアクセサリーで飾ることをやめたのです。
それはどうしてでしょうか。
古墳時代には鏡・玉・剣が祭祀の中核をなす呪具とされますが、一方で、ある程度地位のある人々にとってこれらは、側近くに置き、身を飾る、いわば身近なものでした。
古来の神を奉ずる勢力(物部氏)が仏教を受容する勢力(蘇我氏)に敗れたことにより、古代の日本は大きな宗教的転換期を迎えますが、大化の改新(645年)以降は、中央集権を進めるうえで、神道が天皇を中心とするかたちに再整備されていきます。
「三種の神器」が定められ、勾玉などの装身具は天皇の権威を象徴する重要な祭祀具となりました。
さらに、薄葬令(646年)で古墳造営及び豪華な副葬品の禁止などの方針が打ち出されると、勾玉をはじめとする装身具は神格化され、やがては身分の上下を問わず、気軽に装身具を身に着けることができないようになっていきました。
こうして、縄文時代より連綿と続いていた装身具の習俗が急速に衰えることとなったのです。

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