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企画展「鳥栖の近代」

記事ID:0055925 更新日:2023年2月14日更新 印刷ページ表示
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開催期間

平成22年2月19日~2月25日

会場の風景

はじめに

江戸時代が終わり、明治になると、鳥栖地域にも近代化の波が押し寄せてきました。
行政・納税・教育など、近代的な制度が次々と実施され、生活や文化にも様々な変化が起きました。
また、鉄道の分岐点となったことは、今日の交通の要衝・鳥栖の出発点となりました。
今年度の文化財成果展は、「鳥栖の近代」と題して、鳥栖市誌編纂事業の中で、
市民のみなさまのご協力をいただきながら集めてきた資料や行政文書などから、
鳥栖地域の近代の歩みを示す資料を紹介する企画展示を実施します。
小さな展示会ではありますが、近代の鳥栖の歴史に触れる機会になりますとともに、
郷土の歴史や文化財に対する理解の一助となることができれば幸いに存じます。

近代のはじまり

明治新政府は明治4年(1871)に廃藩置県を断行して江戸時代以来の藩を廃止し、鳥栖市域は厳原県(旧対馬藩領)、佐賀県(佐賀藩領)となります。
その後は、伊万里県→佐賀県→長崎県と改編され、ようやく明治16年(1883)に現在の佐賀県の県名と県域が定着しました。
新政府は、徴兵制・地租改正・学制など、欧米を手本とした近代的な制度を次々に実施していきますが、こうした新しい流れに抵抗する士族の反乱が各地で起こります。
明治7年(1874)2月の佐賀の乱では、鳥栖の朝日山周辺が戦場となり、多数の民家や寺社が焼失するなど、大きな損害を受けました。

朝日山
〈佐賀の乱の戦場となった朝日山〉

鳥栖の新しい為政者

明治2年(1869)1月、薩長土肥四藩主が「版(土地)籍(人民)奉還」をおこなうと、他の大名もそれにならいました。
しかし、政府は、旧藩主をそのまま治藩事として旧領地の統治にあたらせました。
佐賀県域には佐賀・小城・鹿島・蓮池・唐津・厳原の6県が置かれ、鳥栖市域のうち旧対馬藩田代領は、厳原県に属しました。
対馬藩は明治2年4月に版籍奉還を出願し、6月に認可、宗重正が厳原藩知事に任命され、旧来のとおり田代領(怡土・松浦両郡を含む)を統治することになりました。
さらに、江戸幕府から朝鮮との外交費用として受けていた分の補てんとして、新領地の豊前国宇佐郡、豊後国国東郡・直入郡・玖珠郡を得、また下野国(栃木県)安蘇・都賀の領地も玖珠郡の中に振り替えられ、総高8万4500石となりました。
なお、新領地の支配は、田代代官所の地方役からも任命されました。
明治5年5月に伊万里県を経て佐賀県が再置されると、それまで佐賀県管轄下であった対馬は、11月に長崎県へ管轄替えとなり、その際旧田代領は佐賀県に属することになりました。

田代代官所跡(田代小学校)
〈田代代官所の跡地である田代小学校〉

『部類別考鑑』に知るされた時代の転換

部類別考鑑の記事

『部類別考鑑』は、対馬藩田代代官所が過去の事例記事を部類別に編集し、より容易に検索できるようにしたものです。
編集作業は明治初年まで継続されました。享保元年(1716)~慶応4年(1868)分の29冊が現存します。

「公儀御触之部(幕府の通達をまとめた項目)」の最後の記事は、慶応4年(1868)4月19日の記事で、
以下のように記されています。
「一 今般御高札揚替御達之事(こんぱん、ごこうさつあげかえ、おたっしのこと)」
前月15日に旧幕府に替わり薩摩・長州を中心とする新政府が一般庶民の心得を示した「五榜の掲示」を全国に発していますが、「高札の揚げ替え」はこれを指しているとおもわれます。

広及舎に関する資料

広及舎に関係する史料

広及舎は、江戸時代対馬藩の藩主宗家が旧田代領に所有する土地などの財産を管理・運用した団体です。
明治7~8年(1874~75)頃、主法方製産場の建物を改築して事務所を置きました。
明治14年頃まで田畑の集積を行い、明治20年頃から東京に居住する宗家へ、純収益の約2/3にあたる1000円前後を送金していました。
明治20年代から30年代にかけて広及舎の経営を主に行っていたのは、八坂直蔵・古賀寛二・篠原牧太の3名です。
当初は対馬藩の家老・大島友之丞(おおしまとものじょう)の指示を受け、明治20年代には宗家の家扶(かふ:華族の実務・家計をおこなった人)・尾崎延太郎(おざきのぶたろう)と頻繁に連絡を取りながら経営にあたりました。

佐賀の乱で使用されたライフルと銃弾

ライフル銃銃弾

この銃は、古賀町の旧家から発見されました。
明治7年(1874)2月に勃発した佐賀の乱の際に、発見者の曽祖父が政府軍の夫役に徴用され、物資の運搬などの後方支援業務に従事したとの伝承があります。
当時政府軍の制式銃はスナイドル銃であること、政府軍の装備が戦場に遺棄されることは考えられないことから、この銃は佐賀の乱で反乱士族側が使用したものと考えられます。
おそらく朝日山に布陣した佐賀士族が2月22日に政府軍と交戦後、中原宿に退却した際に、朝日山周辺に遺棄したもののようです。
米国シャープス・ライフル社製のカービンライフル(騎兵銃)で、1859年開発の前期モデル(M1859)を1863年に部分改良した後期モデル(M1863)です。
南北戦争時(1861~1865)に大量生産され、戦後余剰となったものが幕末動乱期の日本に大量に流入しました。
1丁30~40両で取引されたとの記録があります。
なお、銃床(ストック)の左側中央部分に「十二番」の刻印があり、この銃がかつて十二番隊の装備品であったことを示していますが、この「十二番隊」が佐賀藩兵の編成か、あるいは幕末維新時に各藩で多数編成された諸隊をさすものかは不明です。

銃弾はいずれも朝日山と鳥栖西中学校との間の耕作地から大正年間に出土したもので、幸津町の旧家に保管されていたものです。
政府軍の制式歩兵銃であるスナイドル銃の椎実形鉛弾で、佐賀の乱の朝日山攻防戦(明治7年(1874)2月22日)の際のものと推定されます。

地方を治める新しい制度(1)―地券―

明治13年の地券
〈明治13年に発行された原古賀村の地券〉

明治5年(1872)、政府は土地所有者に所有権を法的に認めました。
これによって、所有者は土地の売買譲渡などを自由に行うことができるようになりましたが、その際に発生する地価に対して一定割合の租税を納めさせる制度で、地券は所有権が存在する確証として発行されました。
当初発行された明治5年が壬申の年であったため、「壬申地券」とよばれます。
各府県で用紙を準備したため、紙幅や紙質に差があります。
また一所有者がもつ数筆・数十筆の土地を一枚の地券に記載しており、地租額の表示や譲渡を想定した文言は記載されていません。
この制度下では、地価の設定方法などに疑問の声が上がったため、明治6年に地租改正法が公布され、これに基づいて発行されたのが「改正地券」とよばれています。
ここには、土地の所在、地目、面積、地価、地租額、所有者の氏名が明記されています。
しかし、地租が高額であったために地租改正反対の農民騒動が各地で頻発し、明治10年(1877)には税率が3%から2.5%に減額されました。
佐賀県においては、明治6年10月から14年8月に地租改正の作業が行われたといわれますが、佐賀県中心部以東においては、佐賀の乱による混乱と風雨災害のため、その開始が明治9年まで引き延ばされていたとされます。

地方を治める新しい制度(2)―戸籍―

明治~大正時代の三養基郡役所
〈明治~大正時代の三養基郡役所〉

明治4年(1871)、戸籍編成のために戸籍法によって設置された大区と小区は、明治5年に行政単位としての役割を担うようになりますが、明治11年(1878)7月に「郡区町村編成法」が制定されるまでめまぐるしく変化しました。
この法律の制定後、各町村を行政区画として戸長を置くのが原則でしたが、基肄・養父・三根の三郡では、2~3町村で組を構成し戸長役場を設置する方法が採られました。
その結果、ほぼ300戸から500戸を単位に組が設けられました。
このとき、県と町村との間の行政区画として「郡」が置かれ、三根・養父・基肄の三郡は一人の郡長が兼務し、実質的には三郡は一つの行政区とされていました。
明治13年(1880)には、財政の基礎となる税収の安定のため、戸長役場の管轄区域が拡大され、明治22年(1889)の町村合併につながっていきます。

明治の小学校で使われた教科書

明治時代の教科書

新しい行政運営

村の行政文書
〈各町・村に残っていた行政文書〉

やがて国内が安定すると、近代化政策は一層推進されていきます。
文明開化を象徴する鉄道はこの頃より全国に広がりますが、九州でも鉄道開設の機運が高まり、明治22年(1889)12月に博多-久留米(千歳川)間が、2年後には鳥栖-佐賀間が開業しました。
鉄道の分岐点となった鳥栖は、これにより地域発展の基盤が整うこととなり、交通の要衝・鳥栖の出発点となりました。
同じ頃、町村制が施行(明治22・1889年)され、鳥栖市域では轟木村(のちに鳥栖町)・田代村・基里村・麓村・旭村の5村が発足しました。

軍国主義の進展と社会運動

大日本帝国憲法発布(明治22・1889年)により立憲国家となった日本は、やがて帝国主義陣営に参入し、日清・日露の対外戦争を経験します。
鳥栖市域からも多くの兵士が出征し戦死者も出ています。
大正時代になると、自由主義的な機運が生まれ、労働運動や農民運動など様々な社会運動が現れます。
大正7年(1918)の米騒動をきっかけに、農村部では地主と小作農民の対立が強くなっていきますが、小作地の割合が7割近くあり、小作料も高かった鳥栖・基山地域では、大正後期から昭和初年にかけて、小作農民の負担減を要求する小作争議が頻繁に起こりました。

小作争議に関する文書
〈小作争議に関する文書〉

鉄道のまち・鳥栖の隆盛

整えられた鳥栖駅の施設

一方、人の移動の活発化とともに、物流も盛んになり、鉄道の重要性は高まりました。
鳥栖駅は明治後期から大正にかけて、運輸事務所・保線事務所をはじめ、機関区など数々の業務機関が設置されるとともに、貨物の一大拠点として操車場が拡大整備され、「鉄道のまち・鳥栖」が形成されました。

鉄道敷設と鳥栖駅建設に関する文書

鳥栖駅の移転工事に関する文書

昭和3年(1929)に信号取扱所の設置案が出ると、旭村は停車場の設置を願い出ましたが、停車場が設置されたのは鳥栖-旭間が複線化された昭和9年(1935)のことでした。

昭和恐慌から太平洋戦争へ

兵事に関する文書
〈兵事に関する文書〉

大正末期から昭和初年にかけて、第一次世界大戦中の好景気が大不況に転じます。
世界恐慌のあおりを受けて、金融恐慌や米価・生糸の暴落、農業恐慌など、経済的に不安定な状況が続きました。
この時期、鳥栖に本店を置いていた地元銀行の八坂銀行と松田銀行は他行に吸収合併され消滅しています。
人びとの中には開拓移民として出国する動きもありました。
こうした暗い世相の中、活路を大陸に見いだそうとする軍国主義が台頭していき、昭和20年(1945)の太平洋戦争の終結に至るまで、戦時体制に組み込まれた国民は、あらゆる苦難と犠牲を強いられていくこととなります。

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