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企画展「鉄道のまち鳥栖」

記事ID:0055969 更新日:2023年2月15日更新 印刷ページ表示
<外部リンク>

 開催期間

平成23年3月9日~3月20日
九州新幹線全線開通・新鳥栖駅開業記念企画展示

展示会場1 展示会場2

はじめに

明治22年の九州鉄道の開通以来、122年にわたって鳥栖市は「鉄道のまち」として発展を遂げてきました。
国鉄からJRに移行した昭和時代の末期以降、鳥栖駅周辺に存在した広大な鉄道用地は、大きく姿を変えていますが、鉄道輸送における鳥栖の重要性は今も昔も変わりません。
そして、この3月、九州新幹線鹿児島ルートが全線開通し、新鳥栖駅が開業します。
(*注・この展示は平成23年3月に開催しました)
今年度の文化財成果展は、九州の鉄道が新時代を迎えることを記念して、かつての活力にあふれた鉄道現場の記憶に触れる展示会を開催します。
小さな展示会ではありますが、郷土の歴史のひとこまに触れるとともに、文化財に対する理解の一助となることができれば幸いに存じます。

九州の鉄道開業

現在のサンメッセ鳥栖から駅前スタジアム・つばさ鳥栖にかけての広大な敷地には、かつて貨物列車を仕分ける操車場や、機関車の車両基地である機関区などの鉄道業務機関が在りました。
九州鉄道株式会社により九州にはじめて鉄道が開業したのは、博多―久留米間で明治22(1889)年12月11日のことです。
開業当初は、筑後川の鉄橋工事が開業に間に合わなかったため、翌年3月1日に橋が完成するまでは、乗客は下野町の筑後川北岸の仮設ホームで乗降し、ここから建設中の鉄橋に沿って設けた仮設橋を徒歩で渡って久留米駅の改札口から出入りしていました。
なお、開業時の列車は、博多、二日市、原田、田代、鳥栖、久留米(千歳川北岸仮停車場)の6駅で乗客や貨物を乗降させていましたが、駅の半数が現在の鳥栖市内に存在したということになります。

下野の鉄橋
〈筑後川にかかった鉄橋〉

長崎線の開通と「鉄道のまち」の誕生

明治24(1891)年8月には、鳥栖―佐賀間が開業しました。長崎方面・熊本方面の分岐駅は、計画段階では国道が分岐する田代となっていましたが、最終的には鳥栖駅となり、このことで現在の鳥栖市の発展の基礎が定まりました。
開業当時の鳥栖駅は東町三丁目にありましたが、明治36年(1903)7月に現在地に新築移転します。現存する鳥栖駅舎は、この建物を明治44年に増改築したものです。
このあと、鳥栖への鉄道機関の設置が始まり、運輸事務所や保線事務所、さらに明治39年には機関庫が落成、機関事務所(のちの機関区)も設置されました。
明治40年に九州鉄道株式会社は国有鉄道化しますが、こうして明治の終わり頃には「鉄道のまち」の原形が形成されることとなりました。

鳥栖駅
〈昭和10年代の鳥栖駅前〉

機関庫
〈機関車の向きをかえるための転車台と機関庫〉

「鉄道のまち」の隆盛

大正時代の終わりから昭和時代の初めにかけて、乗客数や鉄道貨物量の増加、筑豊本線の全通や久大本線の開通に伴い、電力区・信号区・物資部・検車区・通信区などが次々に設置され、鳥栖は北部九州の鉄道の要としての地位を確立します。
大正14(1925)には操車場が完成し、鳥栖駅の構内は大幅に拡張されました。

上空から見た鳥栖駅
〈鳥栖駅の構内、さまざまな施設がおかれていました〉

貨物車両
〈貨物車の数で鉄道運輸の中心地であったことがわかります〉

鳥栖駅構内
〈機関車と自動給炭機〉

これらの機関に従事する職員は4,000人を超え、大半は家族とともに鳥栖で生活していましたので、鳥栖は名実ともに「鉄道のまち」となりました。
鉄道の発展は、鳥栖に工場立地や雇用、商店街の形成など鳥栖の経済に大きく貢献しました。
中でも鳥栖機関区は、昭和30年前後の最盛期で従業員732名、在籍機関車50両以上、東西2棟の扇形機関庫を有する、全国でも有数の規模を誇りました。
「鳥栖のスズメは真っ黒スズメ」といわれたほどですが、一方では機関区のすぐ裏手にあたる藤木町などでは機関車の煤煙でたんすの中までが真っ黒になるなど、深刻な被害がありました。

煙をあげる蒸気機関車
〈黒煙をあげて走る機関車〉

鳥栖機関区

九州鉄道は明治39年11月6日、久留米機関庫を廃し、鹿児島線・長崎線の分岐点となる鳥栖機関庫を設置しました。
九州の機関区では常に新鋭機が入るエース的存在です。
機関車30両、職員317人が配置され、鹿児島線吉塚~八代、長崎線早岐まで運転を受け持ちました。
明治40年には国有化されます。吉塚、佐賀に支区、肥前山口、日田に駐泊所、原田、赤間、博多、肥前浜に給水所を持っていました。
鹿児島線と長崎線を受け持つだけに、機関車は常に新鋭機が投入されていました。
大正3年には8620型のトップナンバーをはじめ、一挙に12両が配置されています。
大正15年にはパシフィックC51型9両が姿を見せます。
さらに増強されましたが、関門トンネルが開通した昭和17年には、輸送力増強のため、C57型に置き換えられました。
貨物機は昭和8年にD50が登場しますが、その数はわずか4両でした。
昭和11年には新鋭D51が配置され、急速に増加していきます。

D51機関車

最盛期は戦後の昭和24年から36年(鹿児島線の電化前)で、60両前後の機関車が配置され、職員は1,150人にもなりました。
昭和24年には新鋭C61型を配置、D51型、C57型をはじめ、C59型、C60型も投入されます。
運転区間は長崎、早岐、熊本、門司港、豊後森、飯塚まで伸びました。
まさに門司、直方とならぶ九州の三大機関区であったと言えます。
47年3月に無煙化され、扇形車庫も消え、49年にはDD51型26両、DE10型7両のDL基地になります。
昭和62年4月の国鉄の分割民営化、JR九州への移行に伴い、鳥栖運転区になり、現在にいたります。

電化した鹿児島線

鉄道輸送の転換と鳥栖駅の変容

268号機関車
〈駅前広場に展示されている268号機関車〉

貨物輸送の大半がトラック輸送に移行した昭和後期以降、坂阜(ハンプ)から分解・転走させた貨車を仕分線で組成させる旧式の貨物中継基地である鳥栖操車場は衰退の道をたどり、昭和59年に廃止されました。
その後、国鉄からJRに移行した昭和62年以後、機関区・客貨車区などの鉄道業務機関は次々と縮小・廃止されました。
駅東の広大な鉄道用地は大きく姿を変え、かつての面影は失われました。
しかし、平成18年にはかつての大規模な操車場に替わり、コンパクトで機能的な鳥栖貨物ターミナル駅が整備されるなど、鉄道運輸における鳥栖の重要性は今も昔も変わりません。
そして、いよいよ平成23年3月には九州新幹線鹿児島ルート全通・新鳥栖駅が開業して、九州の鉄道が新時代を迎えます。

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