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企画展「近世古文書の世界」

記事ID:0055975 更新日:2023年2月15日更新 印刷ページ表示
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開催期間

平成18年3月15日~3月22日

パンフレット表紙

はじめに

鳥栖市内には近世(江戸時代)の古文書類が伝えられている旧家が多数あります。
こうした古文書類は郷土の歴史を知るための重要な資料ですが、
一般に公開された機会は今まで一度もありませんでした。
そこで今年度の文化財成果展は、「近世古文書の世界」と題し、鳥栖市誌の編さん事業を進める中で、
市民の方からの寄託を含めて収集した文書・絵図面類を展示し、
市民のみなさまが普段接することの少ない「古文書の世界」を紹介する企画展を開催します。
展示された古文書類を通して、郷土の先人たちが直接書き記した、
まさに「歴史の息吹」を感じていただけるのであれば幸いです。

対馬藩田代領と田代代官所

「基肄養父(きやぶ)」と呼ばれる肥前国基肄郡全域と養父郡の東半部は、慶長4年から明治の廃藩まで、対馬藩の当主・宗氏の領する表高1万3千石ほどの飛び地領でした。
その統治機関が田代に置かれた田代代官所で、所在地は現在鳥栖市立田代小学校の敷地となっています。
代官所の長(代官)は「奥役(おくやく)」といい、現代の助役に相当する「表役(おもてやく)」あるいは「佐役(すけやく)」、収入役に相当する「賄役(まかないやく)」とともに対馬本藩から派遣されていました。
また、現地登用の代官所役(地役)は、通常5~6人の「手代役」と、その下に「諸役(土地方吟味役・用銀掛・請払留役・祐筆役・東明館掛・考鑑方・作事掛・山方役・目付役・玄関番)」がいました。
諸役には見習・助勤・仮役が付き、そのほか、足軽級の「三組」(御門番・使番・小人)や買物番などがいました。

領内は「三郷両町」と呼ばれ、領域は基肄郡上郷(かみごう)・下郷(しもごう)、養父郡に三分し、そのうち長崎街道に沿う町場の田代・瓜生野を両町としました。
各郷には各村々の長である「庄屋」を統べる「大庄屋」が、両町には別当(べっとう)・座親(ざおや)が任命されました。

田代代官所指図(たじろだいかんしょさしず)  鳥栖市重要文化財

代官所指図

享保9年(1724)のものと弘化4年(1847)のものがあり、ともに田代代官所の作事掛を務めた家に伝えられてきたものです。
田代代官所の建物は幕末に全面改築されていますが、文献には弘化4年(1847)に指図を対馬本藩に提出したことが記されており、その控えとみられる本図もこの頃の作成と考えられます。
普請は嘉永2年(1849)に始まり、嘉永4年(1851)1月に竣工しました。

主法方製産場指図(しゅほうがたせいさんばさしず)

主法方指図

安政6年(1859)頃 。 幕末頃に4万両に膨れ上がった債務を計画的に返済整理する手段の一つとして、田代領の特産品であった櫨蝋(はぜろう)の生産を代官所が直営することになりました。
前身は嘉永5年(1852)に設立された「生蝋会所」で、安政5年(1858)には、より機能権限の強化された「主法方」となり、安政7年(1859)1月に役所・工場が田代代官所の西側に設置されました。
しかし、結局事業はうまくいかず、主法方役所は文久元年(1861)9月に廃止されています。

田代代官所毎日記(たしろだいかんしょまいにっき)

毎日記

安政2年(1855)。田代代官所の業務日誌ともいうべきもので、通常は手代役の指導で祐筆役が筆記していました。
「安政二年卯 正月毎日記」と「安政二年卯 二月毎日記」を合冊した本書のみが唯一現存します。

基養政鑑 附基養鏡函(きようせいかん・つけたりきようかがみばこ)

基養政鑑

寛政11年(1799)編纂。
田代代官所の企画により、延宝4年(1676)から寛政3年(1791)まで116年間分の「田代代官所毎日記」の記事を抜粋・編纂したもので、過去事例の検索を容易にするために各巻頭には「目録(見出し目次)」を掲載しています。
本編は全6冊で、「基養鏡函」という書名の付編1冊でセットとなっていますが、惜しくも第1巻が失われています。
なお、同様のものが「日記抜書」という書名で対馬藩庁に提出されており、現在は「宗家文庫」の中に収められています。

木箱・落戸(おとしど)  

江戸後期。
「基養政鑑・附基養鏡函」を収納保管する箱(落戸)で、田代代官所の備品で唯一現存するものです。
おそらく本家内の「考鑑の間」の棚に備えられ、考鑑や部類別考鑑などとともに考鑑方が管理して過去事例の検索等に用いていたものとおもわれます。

田代止宿之阿蘭陀人騒動記録(たしろししゅくのおらんだじんそうどうきろく)

オランダ人騒動記録

元禄2年(1689)。この年1月19日に起こった、オランダ商館長の江戸参府に随行した長崎奉行配下の検使が田代宿の上使屋(長崎奉行はじめ旗本や大名の宿泊・休憩施設)に止宿中、大通詞(通訳)を殺害し、さらに1名に傷を負わせた後に自害した事件の調書。
全3巻の下巻のみ現存しており、事件当時の上使屋(西棟)の間取りなどがわかります。

考鑑(こうかん)

考鑑

「基養政鑑」が「田代代官所毎日記」の抄録であるのに対し、「考鑑」は日記中の主要記事を見出しの形で書き出したものです。
現在、享保14年(1729)~文化3年(1820)分の15冊が現存します。

部類別考鑑(ぶるいべつこうかん)

部類別考鑑

編年体で見出しを書き出した「考鑑」の記事を、さらに部類別に編集して、より容易に過去事例記事が検索できるようにしたものです。
編纂作業は明治初年まで継続されました。現在、享保元年(1716)~慶応4年(1868)分の29冊が現存します。

正保絵図確認絵図(しょうほうえずかくにんえず)

正保確認絵図

元禄13年(1700)。
園部村の部分が 空白ですが、これは柳川事件(対馬藩内の内紛をきっかけに日朝通商の国書改ざんが明るみにされた事件)の仕置として減知(没収)されたためで、園部村は寛永12年から正徳元年(1635~1711)まで77年間、天領(幕府の直轄領)でした。

津田愛之助筆 道中日記帳

道中日記

元治元年(1864)。
津田愛之助政信は幼名を積蔵といい、藩校東明館に学んだあと、代官所に出仕しました。
元治元年(1864)4月に藩命で青木与三郎・古賀寛二・八坂恵助・岩谷藤九郎の4人とともに長州に出向き、いわゆる六卿の警護にあたりますが、この5人は6月には脱藩して長州藩の諸隊「忠勇隊」に参加し、京に上ります。
そして7月19日、禁門の変の乱戦の最中、御所南の鷹司邸付近で青木とともに戦死、時に18歳でした。
明治になって従五位が贈られています。

この道中日記帳は、田代から長州に出向く4月14日から、脱藩して忠勇隊に参加する直前の6月1日までの愛之助自身の日記で、おそらく京に上る直前に実家に送ったものと推定されます。
あるいは形見と考えていたのかもしれません。

なお愛之助の名は、京都南郊・天王山の陣中に放置されていた愛之助の衣服の袂に名前とともに書き付けていたという「大君の御盾となりて捨てる身とおもへば軽きわか命かな」の和歌が戦時中の「愛国百人一首」に採用され、当時一躍有名になりました。
「御盾」は海軍特別攻撃隊の隊名になったほどです。

三十二間筋兜 (さんじゅうにけんすじかぶと)

津田愛之助の兜

江戸後期。
津田愛之助は元治元年(1864)4月に藩命で長州藩に出向き、いわゆる七卿の警護にあたりますが、津田家の伝承ではその際に家にあった具足でもっとも良品を携えて出立したとのことです。
この兜はそのまま津田家に遺されていたものです。

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