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企画展「新指定鳥栖市重要文化財~牛原香椎宮縁起と千手観音像~」

記事ID:0056038 更新日:2023年2月15日更新 印刷ページ表示
<外部リンク>

開催期間

平成23年8月24日~8月31日

 展示状況1 展示状況2

はじめに

鳥栖市教育委員会では、これまで優れた美術工芸品や石造物、歴史的に重要な資料を重要文化財に指定し、文化財の保護と周知を図ってきました。
平成23年5月31日には、新たに「千手観音像」と「牛原香椎宮縁起絵 三幅」を市重要文化財に指定しました。
市重要文化財は、この2件を合わせて23件となり、国、県指定の文化財を加えると40件となります。
(*注・いずれもこの展示の開催時の件数です)
今年度の文化財成果展では、「新指定文化財展」と題して、新たに市重要文化財に指定した2件の文化財を市民のみなさまに公開します。
鳥栖市内に所在する優れた歴史資料に触れる機会になりますとともに、郷土の歴史や文化財に対する理解の一助となることができれば幸いです。

新指定重要文化財
「牛原香椎宮縁起絵(うしはらかしいぐうえんぎえ) 三幅
 附 二重木箱墨書銘入/柄鏡銘藤原光長1面/関係文書2点」

八幡縁起図1
〈八幡縁起図 第1幅〉

八幡縁起図2
〈八幡縁起図 第2幅〉

境内図
〈境内図〉

牛原香椎宮縁起絵は、2幅の八幡縁起図と1幅の境内図からなります。
当時牛原村の庄屋であった磯野寿延重利(いそのじゅえんしげとし)と孫娘の美須(みす)が願主となり、美須の平産祈願のため享保10年(1725)に寄進されたものです。
八幡縁起図には、八幡神である応神天皇の父である仲哀(ちゅうあい)天皇の崩御、母神功皇后による三韓出兵、応神天皇の誕生など一連の説話の各場面が描かれています。
境内図には、現在も見ることができる鳥居や放生池、燈籠などが描かれています。
鳥居は元禄元年(1688)、放生池は元禄14年(1701)、燈籠は元禄2年(1689)に寿延が寄進したもので、境内図は香椎宮の整備を記念する意図もうかがわれます。
作者は、境内図の落款(らっかん)に「中橋狩野派九代目狩野永叔(主信)(かのうえいしゅく・もりのぶ)門弟」と記されており、鵜木守利(うのきもりとし)ではないかと考えられます。
鵜木守利については、史料に残されておらず不明ですが、『磯野寿延記』(いそのじゅえんき)の記述から、福岡にいた絵師の可能性があります。
縁起絵の注目すべき点は、箱書きと『磯野寿延記』から制作時期とその由来や意図が知られる点です。
また、対外的な戦争が行なわれた時代に描かれてきた八幡縁起絵が、庄屋の財力によって、身近な願掛けに伝統的な絵画の題材が選ばれたという点で、対外的に平穏な江戸時代中期の時代性を反映しており、歴史資料としての価値が高いとして市重要文化財の指定を受けました。
なお附(つけたり)に、制作・寄進当時の箱、願主美須の寄進の可能性が高い柄鏡1面、縁起絵の修復の由来を記した古文書が加えられています。

附 二重木箱墨書銘入/柄鏡銘藤原光長1面/関係文書2点

つけたりの文化財

牛原香椎宮縁起絵が納められていた二重箱には、次の銘が墨書されています。
内箱蓋表銘 「香椎宮御絵縁起筥」
外箱蓋表銘 「香椎宮御絵外筥」
内・外箱内側底面銘
「享保十乙巳歳/三月五日/願主/磯野寿延重利/同氏 美須/社司/三橋出羽守国俺」
この箱書きから、牛原町香椎神社の縁起絵として伝来したものであること、当時、牛原村庄屋の磯野寿延重利と孫娘の美須が願主となり、享保10年(1725)に寄進されたことがわかります。

柄鏡は、縁起絵が納められていた内箱の底に納められていました。
鶴亀松の図柄に「藤原光長(ふじわらみつなが)作」の銘があります。
藤原光長は、江戸時代中期から後期まで襲名して続いた鏡師と伝えられ、縁起絵が寄進されたのが江戸時代中期であり、時期も合致することから、美須に関連したものである可能性があります。

このほか、修復由来について記した文書2点も文化財に指定されました。

『磯野寿延記』(いそのじゅえんき)

磯野寿延記

『磯野寿延記』は、寿延の手控えの記録を晩年に整理したもので、現存で5巻からなります。
記述は、正保2年(1645)から享保14年(1729)の84年間にわたりっており、庄屋であった寿延自身の身辺と庶民の関わりを知ることができる資料です。
縁起絵制作については、以下のことが記されています。
享保9年12月5日に当時81歳であった磯野寿延は、孫娘・美須の平産を祈願して牛原香椎宮への「御絵」の寄進を思い立ちます。
その意向を受けた同宮の三橋出羽守は、筑前香椎宮へ赴き、「御影」の写し作成の手配を整えます。
このとき、出羽守は「御影三幅」、つまり牛原香椎宮縁起絵の原本となる筑前香椎宮縁起絵を実見し、「身六尺横三尺」、表装を含めると「長サ壱丈横三尺六寸程」、「御影中彩色」で二重箱に入っていたことを寿延に報告しています。
この記述から牛原香椎宮縁起絵は、原本に忠実に制作されたと考えられます。

千手観音像 1躯

千手観音像

檜(ひのき)材の一木造りで、玉眼、白毫(びゃくごう)には水晶を使用しています。
制作年代は明確ではありませんが、均整のとれた体躯(たいく)やきりりとしたまなざしから中世の作と推定され、専門の仏師による製作と考えられます。
千手観音像が納められている観音堂については、正徳6年(1716)の記録に同規模の観音堂が所在していたことが記されています。
また、付近には「アンジ」のしこ名も残っていることから、神宮寺の存在も考えられます。
これらのことから、勝尾城に筑紫氏が在城していた時期に千手観音像が存在していた可能性も高く、歴史性の高い資料であるといえます。
昭和62年には、宝髪(ほうはつ)、頂上仏面、脇手の一部、脇手の持物(じぶつ)、左天衣(ひだりてんね)、輪光(りんこう)が補われるなど大きな補修がなされています。
なお、本像は、西国三十三所観音霊場の二番札所となっています。

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