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企画展「昔、戦争があった~旧田代町役場文書にみる戦争~」
開催期間
平成27年8月12日~9月6日
終戦70年企画展示
はじめに
この夏で終戦から70年になりますが、今回の展示では旧田代町役場文書のうち「兵事関係文書」といわれる戦前戦中の兵事行政にかかわる文書を紹介します。
(*注・この展示は平成27年に開催しました)
戦前の日本は「国民皆兵」の時代で、男子は兵役の義務があり、20歳 (のちに19歳)になると徴兵検査を受けて入隊(入営)しました。
除隊すると予備役となり「在郷軍人」として登録され、有事の際には再び動員(召集)されることになっていました。
当時、全国の市町村役場には「兵事係」という部署がありました。
兵事係の仕事は、軍の指示を受けて、兵役適齢者の調査や兵役を終え除隊した人の現況把握をはじめ、軍から届く臨時召集令状(いわゆる赤紙)や死亡告知書(戦死広報)の配達などがあり、戦争末期には少年志願兵募集のノルマも課せられました。
まさに地域住民と戦場をつなぐ役割を果たしていました。
ここに展示されたものは、一見すると古びた簿冊にすぎませんが、これらの背後にある、戦争の時代に翻弄された当時の人々の様々な想いを感じていただければ幸いです。
『兵事関係文書』とは…?
兵事関係文書は、
(1)徴兵検査及び現役兵を入隊させる徴集に関する文書
(2)戦時に在郷軍人を軍隊に呼び出す召集及び軍馬や車両の徴発などの動員に関する文書
(3)出征兵士の家族支援にかかわる軍事救護など銃後に関する文書
(4)軍からの各種通達などの文書
などからなります。
実は、こうした兵事関係文書は全国的にほとんど現存していません。
終戦時に軍から戦時動員に関する文書を焼却する命令が口頭伝達でありましたが、これを兵事文書一切と勘違いしてすべて処分してしまったためと言われています。
また、戦後実施された市町村合併の際にもかなりの文書が廃棄されたようです。
こうした中、終戦の混乱で命令が伝わっていなかったか、意図的に残されたものなのか真相は不明ですが、一部に欠失があるものの、明治時代から終戦までの文書がほぼまとまった形で現存している旧田代町役場の兵事関係文書は、当時の戦時体制に組み込まれた最末端の行政組織として住民と直接向き合っていた市町村役場の実態を示す、近現代史の大変貴重な歴史資料といえます。
召集令状や徴用通告書を伝達した記録(動員日誌) 昭和12年(1937)~昭和17年(1942)
臨時召集令状、いわゆる「赤紙」を届けた記録です。
令状は佐賀連隊区司令部(陸軍の徴兵・動員・召集・在郷軍人の指導等を掌る機関)から警察署を通して各市町村役場に昼夜を問わず届けられ、直ちに本人に届けられました。
小学校の国語の教科書にある「ちいちゃんのかげおくり」や「一つの花」の物語の中で、お父さんが「兵隊に行く」とあるのは、この臨時召集を受けて入隊する(応集)ことです。
通常は一通から数通の単位でしたが、昭和16年7月11日の項には午後11時20分に臨時召集令状35通、馬匹徴用通告書14通が警察署より配達され、翌午前3時までに全員に届け終えたことが記されています。
鳥栖青年学校生徒に海軍兵志願を勧める文書 昭和19年(1944)
田代町長と鳥栖青年学校長連名の勧誘状で、海軍省発行「海軍志願兵の栞」を同封して生徒に手渡されました。
当時の「軍国少年」を奮い立たせるような文言を書き連ねたまさに「檄文」です。
徴兵適齢前から入隊できる海軍兵や兵学校などの諸学校は、自主的な志願制でしたが、戦争末期になると各市町村役場には数値目標が示されて志願者の確保に苦心しました。
海軍志願兵の徴募依頼文書と海軍入隊取消の通知依頼文書 昭和20年(1945)
徴募依頼文書は、8月5日付で県内政部名の県内各市町村長及び国民青年学校長宛てに発行されています。
昭和21年度海軍志願兵徴募の依頼ですが、「各割当数ノ獲得」と明確にノルマが課されていたことがわかります。
この文書は8月11日にあった鳥栖空襲の混乱のためか、田代町役場が受け付けたのは終戦2日前の8月13日です。
入隊取消の通知依頼文書は、8月20日付県内政部長名の県内各市町村長宛てに発行されました。
9月1日に相浦海兵団(佐世保市:現陸上自衛隊相浦駐屯地)に入隊する予定であった昭和19年度海軍志願兵、つまり左の文書で志願・合格した生徒に対し、入隊取り消しを伝えるよう依頼する内容になっています。
田代町役場は8月22日に受け付け、その日のうちに該当者に通知されています。
戦病死者連名簿 昭和8~24年(1933~49)
旧田代町(村)から出征して戦死・戦病死・殉職された方は全部で195人です。
内訳は日露戦争6人、第一次世界大戦(青島出兵)3人、満州事変3人、日中戦争7人、太平洋戦争176人です。
出征中の家族がいることを示すプレート 日中戦争期 昭和13年(1938)頃
戦争初期の段階のもので鉄製の琺瑯(ほうろう)仕上げです。
戦没者が家族にいることを示すプレート 太平洋戦争期 昭和19年(1944)頃
物資不足のため、粗末なアルミの型押し製です。
戦後に建てられた田代町戦没者の慰霊碑
戦没者を追悼するため、昭和30年(1955)田代公園内に「忠霊塔」の名で慰霊碑が建立されました。