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企画展「弥生時代へタイムスリップ~吉野ケ里遺跡と鳥栖の弥生遺跡~」
開催期間
平成30年7月18日~9月2日
はじめに
今回の展示では、佐賀県を代表する弥生時代の環濠集落である吉野ヶ里遺跡と、鳥栖市内の同時代の遺跡から発見された青銅器や鋳型類、土器や農工具などの出土品およそ50点を展示します。
これらの比較を通じて、弥生時代の生活やクニの成り立ち、鳥栖市の弥生時代遺跡の特色に迫ります。
*この展示は佐賀県立博物館の出張展示として開催しました。
ここでは鳥栖市の所蔵品を紹介しています。
はるか昔から、戦争があった。
日本列島で人々が組織的に殺し合い(戦争)をするようになるのは、弥生時代からだといわれています。
稲作が始まり「富」の蓄積が可能となったことにより、より良い土地や水を求める争いから、やがては強い集団が弱い集団を力で従えていくようになり、ムラ(村)からクニ(国)が生まれ、「権力」が拡大されていくことになるのです。
弥生時代には環濠をめぐらした集落などそれまでにはなかった遺跡が現れますが、何よりも墓地に葬られた人の中に武器で殺害された形跡のある人がみられるようになります。
このことは、当時の社会では「戦争」が、かなり普遍的に存在していたことを示しています。
ここに展示しているものは、現在の鳥栖市域における最古の「戦争犠牲者」の痕跡です。
村田三本松遺跡の「戦争」の痕跡
弥生時代中期(約2200年前)の8005号甕棺墓から細形銅矛(ほそがたどうほこ)の折れた先端が見つかりました。
出土状況から被葬者は腰を指されたと考えられます。
〈甕の口を合わせて棺にした甕棺墓〉
〈棺として使われた土器〉
〈棺の中から見つかった銅矛の先端〉
儀徳遺跡の「戦争」の痕跡
弥生時代中期(約2200年前)の71号土壙墓から、細形銅矛(ほそがたどうほこ)の折れた先端が見つかりました。
被葬者はこの切先が体内に刺さったまま埋葬されたようです。
〈武器が見つかった土壙墓〉
〈墓穴から見つかった銅矛の先端〉
安永田遺跡の「戦争」の痕跡
弥生時代中期(約2200年前)の26号甕棺墓では、石剣・細形銅矛・細形銅剣の切先が見つかりました。
出土状況から被葬者は上半身を石剣、腰から下半身を銅矛と銅剣で刺されたと考えられます。
〈26号甕棺墓の中の様子〉
〈棺の中から見つかった武器の破片〉
弥生時代中期(約2100年前)の77号甕棺墓、1016号甕棺墓、1028号土壙墓では、石製の武器の破片が見つかっています。
いずれも被葬者の体内に刺さっていたと考えられます。
〈77号甕棺墓、かぶさっていた土の重さで割れている〉
〈甕棺の中から見つかった石剣の先端〉
〈右上にある1016号甕棺墓〉
〈1016号甕棺の中にあった石の矢じり〉
〈1028号土壙墓〉
〈土壙墓で見つかった石剣の先端〉
弥生時代中期(約2100年前)の2号土壙墓では、鉄製の矢じり(鉄鏃/てつぞく)が見つかりました。
この墓の被葬者は、5本の矢が刺さった状態で埋葬されていました。
このことから、戦いとは別の原因による犠牲者とも考えられます。
〈土を掘って墓穴にする土壙墓、この中に鉄鏃がありました〉
〈鉄の矢じりの先端〉
矛や剣のほかにも、弥生時代の戦いに使われていた武器があります。
粘土をラグビーボールのような形にまるめて焼いた、投弾(とうだん)と呼ばれるものです。
帯状のものに挟んで振り回して得た遠心力で遠くに飛ばします。
ミクロネシア・メラネシア・ポリネシア方面の広範な地域に分布する狩猟具ですが、弥生社会では武器として使用されることが多かったようです。
慣れるとかなりの精度で命中し威力もありました
柚比本村遺跡の「戦争」の痕跡
〈1137号甕棺墓で見つかった装飾付きの銅剣〉
弥生時代中期(約2200年前)の1137号甕棺墓に副葬されていた青銅製の短剣。
(右の写真は複製品、本物は国の重要文化財に指定されています)
赤い漆と玉飾りで装飾されており、有力者が身に着けていたと考えられます。
これ以外にも青銅製の剣が何本も見つかりました。
木製の鞘などの外装品は残っていませんが、青銅製の柄頭(把頭飾)が装着されたものがあります。