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企画展「大川をめぐる攻防」

記事ID:0053122 更新日:2022年12月27日更新 印刷ページ表示
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開催期間

令和4年11月23日~12月25日

令和4年度企画展示「大川をめぐる攻防」ポスター

はじめに

九州随一の大河・筑後川。
その流れは筑後平野という肥沃な穀倉地帯を生み出し、さまざまないきものの命を育んできました。しかしその一方で、たびたび氾濫を起こす暴れ川でもありました。
「筑紫次郎」とも称されたこの川をめぐり、流域に暮らす人びとはときに力を合わせて立ち向かい、ときに利害を求めて対立してきました。
この展示では、江戸時代の筑後川流域に位置していた対馬藩、佐賀藩、久留米藩が、領地と領民を守るために繰り広げてきた、4つの「たたかい」についてご紹介します。

〈川の名称について〉
この展示の主題である「筑後川」は「千歳(ちとせ)川」や「筑間(ちくま)川」、「御境(おさかい)川」、「一夜川」など、さまざまな呼び方をされてきました。
これらの名称は、寛永15年(1638)幕府が久留米藩の申出を許可して本流を「筑後川」と呼ぶように統一され、これが現在の名称に繋がっています。
なお今回の展示は、対馬藩田代代官所由来の史料を中心に紹介しています。
この史料では現在の筑後川を「大川」と表記しているため、展示タイトルには「大川」の名称を用いました。

 

第一幕 成富兵庫茂安の堤防と丹羽頼母重次の荒籠

side:佐賀藩

17世紀はじめごろ、江戸幕府の政治体制と諸大名による地方支配が確立され、佐賀藩でも鍋島氏による本格的な領国経営が始まります。
藩の財政を安定させるには新たな農地の開発が欠かせませんが、そのための重大な問題は「筑紫次郎」という暴れ川をなだめることでした。
この難題に取り組んだのが、佐賀藩士であった成富兵庫茂安(なりとみひょうごしげやす)です。
茂安は龍造寺氏の配下で活躍した武将ですが、後に鍋島氏に仕え、農業用水に関わる多くの土木事業を指揮しました。

茂安が元和年間(1615-1624)に築造したのが、三根郡千栗(ちりく)から江口村までの三里(約12 km)にわたる千栗堤防です。
完成まで12年の年月をかけたと言われるこの堤防は、内堤と外堤の二重構造になっており、その間の百間(約180m)の空間は洪水の遊水地とされました。
堤は四間(約7.2m)もの高さがあり、川水に接する面には補強のための竹が、その反対側には修繕用の資材として杉が、それぞれ植えられました。

現在の千栗堤防
〈現在も一部が残る千栗堤防〉

side:久留米藩

筑後国久留米藩領では、元和6年(1620)に有馬豊氏が藩主として入封します。
領国の北辺に長々と横たわる「筑紫次郎」の存在は、やはり領国経営の大きな課題でした。
そこでまず、佐賀藩の築いた千栗堤防の対岸にあたる安武村に、長さ一里(約4km)の堤防を築きました。
これに加えて、川岸には荒籠という護岸施設が設置されました。
荒籠とは岸辺から川水の流れる方向へ突き出した石積みの施設で、水の当たりを対岸へ跳ね返すことから水刎(みずはね)とも呼ばれます。

この治水工事を主導したのは久留米藩の普請奉行・丹羽頼母重次(にわたのもしげつぐ)です。
久留米城の下流にあたる三潴郡では、慶安元年(1648)からの約10年間で数多くの荒籠が造られました。
中でも草場村に築かれた荒籠は、規模が大きく堅固であったことから「頼母荒籠」とも呼ばれます。
また承応2年(1653)には、久留米城と城下町の防衛力の強化と水害対策のため、城の外堀や堤の築造が行われました。

大川流域の諸藩と堤防
〈江戸時代の大川(筑後川)の流れと周辺諸藩の領地〉
佐賀藩の千栗堤防と久留米藩の安武堤防が向かい合っており、上流には久留米城が位置している

 

第二幕 水屋村と荒瀬村 元禄11年の境川川論

side:対馬藩田代領

対馬藩水屋村と久留米藩荒瀬村の間では、藩の境界を流れる加利川(かりがわ・現在の宝満川)とそこにある中洲(川中島)の支配権について長く諍いが続いていました。
元禄11年(1698)10月、対馬藩・陶山(すやま)庄右衛門(しょうえもん)はこれについて久留米藩に交渉を申し入れ、次のように提案します。

「加利川は中心線を境にしてそれぞれ川岸の村の支配とし、川中島も同じく扱う。
ただし、川における鳥猟、魚漁については水屋村が全面に権利を持つ」

「加利川の権利については折半とするので、代わりに、水屋村の上荷船に佐賀藩の上荷船と同様、久留米城下の大川を通行しても良いこととする」

それまで対馬藩では、田代領で収穫した年貢米の廻送に荒瀬村の船を使っていました。
しかし年々増える洪水被害の対策として、避難や救助に用いる船の確保が求められ、その整備や維持費を捻出するため、船を使った日常的な仕事を必要としていました。
この仕事のためには、有明海へ通じる大川の通行権が欠かせなかったのです。

side:久留米藩

久留米藩はこの提案を当然しりぞけます。
加利川の支配権は、川での鳥猟、魚漁はもちろんのこと、渡し船の運航やその収入も対馬藩が独占しており、久留米藩は対等に同じ権利を得ることを求めていたからです。
また大川の通行については、久留米城の防衛上その直下を通行することは他藩に対しても許可しておらず、対馬藩を特例とすることはあり得ませんでした。

大川の通行権を切望する対馬藩は、周辺調査で得られた「佐賀藩領・千栗の上荷船が、久留米藩の許可を得ることなく、対馬藩領を経由して川上り、川下りをしている例がある」と重ねて要求します。
しかしこれも「『他所船』の城直下の通行は古来より不許可である」と拒否しました。

この川論は最終的に、久留米藩が鳥猟、魚漁の全権を水屋村に認め、対馬藩が上荷船の通行権を断念することで終局します。
ただし御鷹場の隣接地である荒瀬村では、そもそも鳥猟、魚漁は行われていなかったため、久留米藩に実質的な影響はなく、対馬藩にのみ不満が残る結果となりました。

 

第三幕 小森野村 享保年間の荒籠問題

side:久留米藩

城と城下を中心に始まった久留米藩領の治水事業は、17世紀後半になると舞台を上流へ移し、
大石・長野堰(福岡県うきは市)のような農業用水を確保するための堰と水路の建設を中心に行われました。
しかし正徳年間(1711-1715)になると、再び久留米城下やその周辺で頻繁に護岸工事が実施されるようになります。
正徳4年(1714)には、久留米藩が資金や用材を提供する直轄事業として23カ所の荒籠と3ヵ所の水刎が築かれました。
また享保元年(1716)には、荒籠奉行により150坪という大規模な小森野荒籠が設置され、同8年(1723)には小森野新堤防が完成しています。

ところで、荒籠や堤防は本来洪水を防ぐための護岸施設ですが、造りすぎると当然のことながら川幅が狭まります。
そうなると川水の流速が速まって川岸が削られ、大雨の際には上手く雨水を流すことができません。
佐賀藩と久留米藩が競って護岸工事を行った結果、行き場を失った川水は上流の対馬藩領を襲うようになります。

小森野と下野の荒籠
〈久留米藩小森野村とその対岸に造られた荒籠、左下には久留米城が描かれている〉

side:対馬藩田代領

対馬藩田代領での洪水については、正徳5年(1715)の記録に「大川筋一件先年以来之様子」とあることから、これ以前から懸案事項だったようです。
対岸の荒籠で刎ねた水の勢いで川浜の砂が流されることや、年々少ない雨量でも洪水が起こるようになり、その水位も高くなっていることが記されています。
田代代官所は洪水被害の原因である荒籠を減らすよう、佐賀・久留米両藩の庄屋、大庄屋と協議しますが、もちろんどちらも譲りません。

安楽寺・真木の被害記録
〈『大川筋荒籠一件之記録』に記された安楽寺や真木の状況〉

そんな中、享保20年(1735)7月に上郷の大庄屋・天本豊左衛門が、佐賀藩と久留米藩双方の大庄屋へ荒籠水刎の件について協議を申し入れ、これをきっかけに両藩の役人が直接交渉を行うことになります。
しかしいずれの藩にも言い分があり、交渉には長い期間が必要でした。

延享3年(1746)12月一部の荒籠が取り除かれ、同5年(1748)1月には佐賀藩と久留米藩の間で荒籠に関する議定帳が取り交わされます。
ところがこの議定帳の内容がすべて実現された訳ではなく、問題はなおもくすぶり続けます。

第四幕 道海島村 天明年間の荒籠問題

side:佐賀藩

大川をめぐる佐賀藩と久留米藩の対立はなおも続き、ついに幕府の代官所が介入する事態が発生します。

安永5年(1776)久留米藩は三潴郡道海島村に船着き場として新たな荒籠を設置しました。
もともと大川下流の向島村には米会所が置かれており、ここから有明海を経由して大坂の蔵屋敷へ米の廻送を行う際の輸送の便をはかるため、この荒籠を築いたのです。

しかし、長さ193間(約350m)という長大な荒籠が有明海に近い下流に造られると、潮の干満による川水の動きに大きな影響をおよぼします。
佐賀藩領では大庄屋から「農業用水を確保するための“江湖(えご)”に塩分を含んだ潮水が入ってしまう」と抗議があり、佐賀藩は日田代官所に対し、久留米藩への取り成しを申し入れました。
これに加えて、天明元年(1781)には佐賀藩坂口村と久留米藩草場村の漁民たちの諍いが起こり、天明3年(1783)には佐賀藩が下野村に新堤防を築きました。
こうして、大川をめぐる佐賀藩と久留米藩の確執が再燃します。

side:対馬藩田代領

大川の荒籠問題を解決すべく送り込まれたのは、倉敷代官所の万年七郎右衛門です。
問題となっていた佐賀・久留米・対馬三藩の領界見分を行った七郎右衛門は、天明5年(1785)8月、佐賀・久留米両藩へ川水の流れを妨げる構造物を取り除くように内達します。
あわせて荒籠が原因である洪水によって農業に大打撃を受けていた対馬藩田代領には、この中に加わって調停を担うように命じました。

協議は各藩の家老職を中心に進められ、翌年の4月には対馬藩領で、次いで佐賀・久留米両藩でも会談が行われます。
そして8月、対馬藩藤木村において、大川の水流をとどこおりなくするため、三藩がそれぞれどの場所に、どのような措置を取るか、詳細に記した議定書が取り交わされます。
また仲裁役をした対馬藩江戸家老の杉村直記は、佐賀・久留米両藩の魚漁と大川の通行問題の解決にも助力しました。

荒籠水刎の撤去について記された議定帳
〈各所の荒籠、水刎の撤去や縮小についてまとめた『川筋新荒籠水刎等立除間数議定帳』〉
(佐賀県立図書館所蔵資料)
佐賀藩、対馬藩、久留米藩それぞれの領内の荒籠・水刎に対して指示書きがある

こうしてようやく大川をめぐる攻防は収束を迎えます。

おわりに

「筑紫次郎」の大暴れは、残念ながらこののちも続きます。
天明8年(1788)には久留米城下が水に浸かり、寛政3年(1791)には千栗堤防の一部が決壊するなど、度重なる洪水被害に苦しめられます。
筑後川で洪水が頻発した理由として、水源地の地質や川床の傾斜の状態、流路の蛇行などが挙げられています。
この展示で取り上げた、流域の諸藩の自領優先の治水・利水工事もその一つと言えるでしょう。

明治維新以降、筑後川は全域が内務省の管轄となり、三期にわたる改修計画に基づいて捷水路(しょうすいろ)の掘削や放水路・水門の設置、支川の整備などが行われました。
近代以降も水害は続きましたが、流域の人びとはそのたびに自然の脅威と対峙しつつ、川の恩恵を受けて、日々の暮らしをいとなんでいます。

 

 

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