本文
鳥栖市が発足した1954(昭和29)年頃から1973(同48年)年第1次石油危機までの間は、日本経済のいわゆる高度経済成長を続けた時代です。
この後半期は、交通輸送量における急成長と「モータリゼーション」と呼ばれる交通・運送の大変革を遂げた時代でもありました。鳥栖市も「鉄道のまち」から「交通要衝のまち」へと呼び名が変わり、市の発展の方向にも大きな変化をもたらしました。
1965(昭和40)年、海口市長の辞任を受け、安原謙市氏が第2代市長に就任しました。
市長交代のこの時期、前年10月に始まった「40年不況」のさなかにあり、鳥栖市は企業誘致で最も成果をあげた反面、奨励金交付、用地買収補助金などの支出が、進出企業が納入する市税を上回り赤字でした。
折しも、産業や生活基盤の本格的な整備段階に入っており、上水道、河内防災ダム、市庁舎建設移転費などの支出は、起債償還のピークと重なり、市財政収支の見通しを立てることが、安原市政の主要課題でした。
河内防災ダム
第2代市長 安原謙市氏
※安原氏の市長就任期間…1965(昭和40)年4月~1969(同44)年12月
1970(昭和45)年1月、原忠實氏が第3代市長に選出されました。前市政の残した問題の解決や継続事業の取り組み、前年に国が打ち出した「新全国総合開発計画」に沿った国や県との新たな政策展開に早期に対応しなければならず、まさしく課題は山積していました。
原市政の第1期は、同計画をもとに、広域行政圏プラン、第1次総合計画の策定、市街化区域の線引き、鳥栖商工団地の建設計画などが進められました。
鳥栖市における鉄道(国鉄)の輸送状況を見ると、乗客数は昭和30年代を通じて増加していますが、同41年を頂点として減少していきます。
また、左下グラフの市内における乗用車の普及状況を見ると、同30年代後半から同40年代にかけて爆発的に普及していることが分かります。この時期に乗用自動車が市民の交通手段となりつつあることを示しています。
昭和40年代の大きな特徴は、新しい高速自動車道路網の整備や都市間をつなぐバイパス道路の建設であり、鳥栖市はその中心的な地域となっていきます。
国道3号のうち久留米市と筑紫野町(現・筑紫野市)の間の交通渋滞を緩和するものとして、1972(昭和47)年5月、「鳥栖筑紫野有料道路」が完成しました。また、九州自動車道は、1973(同48)年11月、鳥栖インターチェンジ―鳥栖ジャンクション―南関インターチェンジが開通しました。
(グラフ)鳥栖市における乗用車保有台数の推移
鳥栖筑紫野有料道路の開通式(昭和47年)
1962(昭和37)年度から1964(同39)年度までに造成された轟木工業団地や市有地の売却などにより轟木地域での企業誘致が活発化し、この時期にフランスベッド(株)、日米コカ・コーラボトリング(株)、イカリソース(株)、ブリヂストンタイヤ(株)などが進出しました。
誘致が本格化した1962(同37)年頃から、従業員数、出荷額数ともに延びていきます。1967(同42)年には鳥栖市の製造出荷額は佐賀市を抜いて県内で1位となりました。
1972(同47)年4月現在の鳥栖市内における従業員数は、誘致企業が3,226人、在来企業が4,647人と誘致企業は全体の41%となり、その後も人数や割合が増えていくことからも、地域の雇用への貢献が見られます。
この時期に操業した誘致企業 ※企業名はいずれも当時の名称
轟木工業団地(昭和46年)
日米コカ・コーラボトリング(昭和43年)
サンウェーブ工業(昭和43年)
昭和40年代は公害が社会問題化した時代でもありました。
そこで、新たな条例として1972(昭和47)年に「鳥栖市工場および事業場の設置に伴う措置に関する条例」が制定され、同年2月には、鳥栖市とブリヂストンタイヤ(株)鳥栖工場との間で、初の公害防止協定が結ばれました。
市役所にで協定に調印
この時期、鳥栖市内における小売商店の展開は、小売組合の結成や商店街の連合会の結成を通して、次第に変化しました。
市内では、昭和40年代に3つの商店街が結成されました。1964(昭和39)年に大正町商店街(組合員数39人)、1972(同47)年に本通筋商店街(同47人)、1973(同48)年に東町商店街(同44人)です。商業界の近代化も活発になり、経営規模の拡大やアーケードの建設、客寄せ行事が盛んに行われるようになり、本通筋商店街は1972(同47)年にアーケード街の一期工事を完成させました(同50年に全体が完成)。
高度経済成長期の農業が急激に変化する中で、より高度な技術と合理的な経営が求められるようになりました。
鳥栖市でも、農業経営の安定と生活水準の向上を図るため、1968(昭和43)年4月に、当時の8組合が合併し、「鳥栖基山農業協同組合」が発足、組合員数は4,000人となりました。
鳥栖市の農地は、商業地の拡大や工場の進出に伴い1954(同29)年から1970(同45)年までに合計365.9ヘクタール少なくなります。
一方で、新しい農地の造成は、水田やみかん園の造成などが主として行われました。農業近代化の基盤として整備を進めながら、一方では工場の進出などによる都市化によってその領域を急速に狭くしていったと言えます。
平田町付近のみかん畑(昭和40年頃)
教育面では、昭和30年代後半から進学希望者も増加しました。
鳥栖地域は工業地帯として発展するとともに商業活動も活発化し、鳥栖高校商業科への志望者も増えはじめ、商業科を独立して拡大する要望もあり、1971(昭和46)年4月、平田町に県立鳥栖商業高校が開校しました。また、1968(同43)年に蔵書約3,500冊をそなえた市立図書館が本町に開館しました(平成4年に現在の布津原町に新築移転)。
市立図書館開館当時の様子
1965(昭和40)年に鳥栖ビルが竣工し、駅前広場も完成しました。また、1967(同42)年には、新市役所が完成し、本通り筋から現在地に移転しました。
鉄道・操車場による地域分断を軽減するため、藤木踏切に代わる地下道が1971(同46)年に完成し、市街地の都市計画街路の整備が進みました。
水道整備では、1968(同43)年から一部の区域へ上水道の給水が開始されました。
昭和42年に完成した新市庁舎