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1973(昭和48)年に九州縦貫自動車道が開通、高速道路時代の幕開けとともに「鉄道のまち」から文字どおり「交通要衝のまち」となった鳥栖市。
国の列島改革政策とまちづくりの基本計画である「総合計画」の下に、トラック輸送を主とした内陸工業・物流基地のまちとして発展していきました。
また、この時期は、人口が5万人を突破し、国体の開催や甲子園初出場など、地元が沸いたスポーツの話題も見られます。
原市政の重要課題は、実施段階を迎えた鳥栖市総合計画(第1次総合計画)に基づいた都市づくり事業の達成と、商工団地造成事業の遂行でした。同計画では、特に(1)下水道の施設整備(2)上水道・ごみ処理場の増設(3)1976(同51)年の佐賀国体に備えた体育館の建設(4)都市基盤づくりの計画道路の整備が重視されていました。
しかし、当時の列島改造政策に端を発する地価の高騰、オイルショックによる日本経済の停滞などが影響し、これらの課題達成はなかなか前進しませんでした。
原市長が3期目を迎えた1978(同53)年、当時の課題は第1次総合計画で目指す都市像「交通拠点をいかした産業都市」と深く関連する事業の達成であり、商工団地の完成を急ぐことと、鳥栖市域を九州経済ブロックの流通交通の拠点として発展させる路線を敷くことでした。
また、これらの課題を達成するため総合計画の見直しが行われ、1981(同56)年には第2次鳥栖市総合計画が策定されました。
第3代市長 原忠實氏
※原氏の市長就任期間…1970(昭和45)年1月~1987(同62)年1月
第2次鳥栖市総合計画が練られていた1981(昭和56)年、当時の通商産業省によって、列島改造政策の「25万都市構想」に原型を持つ「テクノポリス構想」(先端技術と大学、研究所、住宅などを有機的に結合した新しい都市づくりを目指すもの)が公表されました。
1981年8月、佐賀県と福岡県が、県境を越えたテクノポリスの実現を目指し、両県で共同歩調をとることで合意しました。この合意の段階では、久留米・佐賀両市を母都市とし、テクノポリスを鳥栖市にするという構想で、通商産業省に申し入れることになっていました。その後、同年11月の最終折衝で、福岡県側が久留米市・広川町・三潴町(当時)、佐賀県側が鳥栖市・基山町・中原町(当時)・北茂安町(当時)の2市5町を複合テクノポリスとすることが決められ、同省に働きかけていくことになりました。
原市政4期目の1982(同57)年4月には、久留米・鳥栖テクノポリス計画の基本構想が策定され、鳥栖市域については市街地の拡大に合わせた都市整備や、商工団地を先端産業の受け皿とすること、鳥栖市北部丘陵地(現在の弥生が丘地区とその周辺)を先端産業の複合団地とすることなどが挙げられました。
国のテクノポリス調査団が鳥栖市へ視察に訪れました
1972(昭和47)年、佐賀県は全九州をエリアとし、大きな物資の集散基地となる「鳥栖商工団地」を建設する計画を明らかにしました。
県と市は、この商工団地において、流通部門のみならず、雇用を生み出す製造工場を持つ企業を50%以上誘致することを目指し、企業の選別にあたっては、公害の排除についても強く意識し、誘致企業とは公害防止協定を締結していきました。
団地の造成は、地価の高騰などのため遅れたものの、1976(同51)年には造成用地の買収をほぼ終え、1978(同53)年に分譲開始、1980(同55)年末には団地の流通部門用地が完売しました(1987年にすべての用地が完売)。
この時期に進出した誘致企業 ※企業名はいずれも当時の名称
鳥栖商工団地(昭和57年、藤木町付近)
団地敷地内の整備も行われました
この時期は、総合計画に沿って上下水道やごみ処理といった生活基盤の整備や、文化施設などの建設が次々と進められていきました。
1975(昭和50)年には、公共下水道事業が認可され、工事が始まり、翌1976(同51)年には浄水場が落成し、市独自の取水が開始されました。また、同年、1974(同49)年に着工、建設が進められていた大型ごみ焼却炉(真木町)が1976(同51)年に完成し、1981(同56)年からはごみの週2回収集が開始されました。
各地区に公民館や老人福祉センターが建設されていったほか、鳥栖に移り住んできた市民らから文化施設を要望する声が上がったことなどから、市民文化会館の建設が決定し、1982(同57)年に、現在の市民文化会館が完成しました。
下水道の管きょ布設工事
1972(昭和47)年に文化財保護条例が制定されたことから、この時期は、市内の遺跡の発掘・保護、文化財の指定が次々に行われました。
1976(同51)年には庚申堂塚古墳の発掘調査、田代太田古墳の保存工事が完了。翌1977(同52)年には柚比遺跡群の確認調査が実施され、1980(同55)年には、柚比町安永田遺跡で銅鐸の鋳型片が発見されました。
また、昭和50年代以降、牛原や藤木、曽根崎で行われていた獅子舞など、地域の民俗芸能が復活していきました。
安永田遺跡発掘の様子
1976(昭和51)年に開かれた第31回国民体育大会(若楠国体)では、佐賀県が開催地となり、鳥栖市はバレーボールと馬術の会場となりました(バレーボールはこの年完成した市民体育館で、馬術は佐賀競馬場で開催)。
同大会では鳥栖市出身選手の活躍も数多く見られましたが、中でもバレーボール(成年女子)では、久光製薬バレー部(現・久光製薬スプリングス)が、約3,000人の観衆が見守る中、見事優勝。同じくバレーボール(成年男子)でも、本市出身選手を擁する佐賀クラブが3位に輝き、佐賀県の総合優勝に貢献しました。
また、大会開催に当たっては、選手団の受け入れや炊き出し、会場美化などに多くの市民が協力しました。
熱戦のバレーボール競技
1983(昭和58)年に開かれた第65回全国高等学校野球選手権大会に、鳥栖高校野球部が初出場しました。
同校は、7月27日に行われた佐賀県大会の決勝で佐賀北高校を6-1で破り、県東部地区としても初となる甲子園出場を決めました。
8月11日に行われた本大会1回戦では桜井高校(富山)と対戦し、6-2と圧勝。続く2回戦(同15日)では、鳥栖高校が先取点を奪うものの、東海大一高校(静岡)に1-7で敗れました。また、初出場の鳥栖高校を応援しようと、甲子園には同校生徒や市民など約2,000人が駆けつけ、熱い声援を送りました。
初出場で初勝利を挙げた鳥栖高ナイン