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1984(昭和59)年に「鳥栖・久留米テクノポリス構想」が承認され、筑後川流域圏におけて先端技術と研究・産業・住宅地などを有機的に結びつけた新しい都市づくりが始まり、それを受けた大型事業も進められていきます。
また、高速道路の整備も進み、鳥栖市は、かつての鉄道輸送による物流基地からトラック輸送を中心とした物流基地の町へと変化し、それに伴い市の産業構造も変化していきました。
1984(昭和59)年9月に久留米・鳥栖テクノポリス指定が決まると、それを受けて大型プロジェクトへの取り組みが本格化します。原市政の5期目は、3大プロジェクト(鳥栖駅周辺市街地再開発、鳥栖北部丘陵新都市開発、西部工業団地造成)に取り組むことが主要課題でした。
市街地を東西に分断する鉄道の高架化、専売公社跡地を商業施設コミュニティセンター用地として確保、鳥栖駅西地区整備と駅前広場の整備などが盛り込まれました。
佐賀県、鳥栖市、基山町による「基本整備計画検討委員会」を組織して、基本計画を策定。土地利用計画として計画面積300ヘクタールのうち、住宅用地57ヘクタール、産業用地70ヘクタール、道路用地35ヘクタールなど12用途が決められ、1987(同62)年の着工を目標に用地取得業務が始まりました。
テクノポリス指定の受け皿づくりを目指す中で、藤木町の商工団地がすでに満杯状態に近く、新規計画が必要とされていたことから生じました。原市政5期目がスタートした時点には、立石町の新商工団地プランについての用地買収の交渉が進んでいました。
鳥栖駅と市街地(昭和61年)
1987(昭和62)年3月、山下英雄氏が第4代の鳥栖市長に就任しました。山下新市長の初仕事は、昭和62年度予算編成でした。原市政の継承、大型プロジェクトの推進に加え、市民生活に密着した事業、教育施設、道路河川の新設改良、農業振興対策などに独自色が盛り込まれました。
第4代市長 山下英雄氏
※山下氏の市長就任期間…1987(昭和62)年3月~1999(平成11)年3月
山下市政の2期目は、大型プロジェクトが具体的に動き始めた時期に当たります。1992(平成4年)年11月14日、駅周辺再開発事業のうち駅東側の中心施設「定住・交流センター(サンメッセ鳥栖)」の起工式が行われました。同センターは敷地約1万3,000平方メートルに6階建て、総工費約26億4,000万円、平成7年春に完成予定とされました。次いで同月の17日には北部丘陵新都市開発整備事業の起工式が行われました。
サンメッセ鳥栖
1984(昭和59)年に久留米・鳥栖テクノポリス地域が指定されました。この構想は、県境を越えて高度技術集積都市を実現するため、久留米市を母都市、鳥栖市を副母都市とし、筑後川流域に広がる2市5町(当時)を圏域と位置づけるというものでした。
また、このテクノポリス構想の一環として、鳥栖西部工業団地の建設が進められることとなりました。事業主体が佐賀県で、肥前麓駅の南西の長崎本線と国道34号にはさまれた丘陵地にあり、福岡空港まで約30km、鳥栖インターチェンジまで約6km、鳥栖駅まで約7kmです。1986(同61)年に造成が着工され、1990(平成2)年に完成しました。
西部工業団地開発前(昭和60年ごろ撮影)
この時期に操業した誘致企業 ※企業名はいずれも当時の名称
九州自動車道は1984(昭和59)年に関門橋と直結して中国自動車道とつながりました。1985(同60)年には佐賀大和ICと鳥栖JCTが開通、そして1987(同62)年には鳥栖JCTで九州横断自動車道大分線(通称・大分自動車道)とつながり、鳥栖JCTは文字通り九州を縦横に結ぶ接点となりました。
鳥栖JCTは日本最初の典型的な四つ葉のクローバー型構造であり、ほぼこれと一体化した鳥栖ICの開所1年間で、乗り降りした自動車の台数は上下合わせて311万台にものぼります。
昭和54年ごろの鳥栖ジャンクション(大分自動車道が未完成)
鳥栖北部丘陵新都市の事業主体は地域振興整備公団で、1989(平成元)年11月、佐賀県、鳥栖市、基山町からの要請を受ける形で開発整備事業が開始されました。鳥栖市と基山町にまたがる事業区域のうち、鳥栖地区(鳥栖市柚比町、今町と永吉の各一部)は「弥生が丘」、基山地区は「基山グリーンパーク」と命名されました。そのうち鳥栖地区の計画面積は210ヘクタールで、産業用地、住宅用地、公園・緑地、道路、誘致施設、教育施設などの利用構成に分けられました。計画人口は約7,000人(2,100戸)とし、全体の事業期間は、平成2年度から概ね13カ年間とされました。
弥生が丘の事業計画が国に認可されたのが1993(同4年)1月で、同年11月に起工式が行われ、開発が進められていきました。
開発前の弥生が丘(昭和62年撮影)
高度成長から安定成長に時代が変わった昭和50年代以降、鳥栖市の民俗芸能も第二次世界大戦後の大きな時代の変遷の中で、中絶し、そのまま廃絶したものもあれば地域の努力で復活したものもあります。曽根崎の獅子舞は1962(昭和37)年以降、宿の鉦浮立は1959(同34)年以降、それぞれ途絶えていましたが、曽根崎は1984(同59)年に、宿は1989(平成元)年に復活しました。
また、この時期は新たな催しも誕生しました。1988(昭和63)年に第1回とす弥生まつりが開催され、1989(平成元)年には5月1日を「花の日」、5月15日を「鳥の日」と制定し、現在もそれらにちなんだ催しが行われています。
第1回とす弥生まつり
1992(平成4)年、鳥栖市に残る平和のシンボル「フッペルのピアノ」にまつわる逸話を元に生まれた「月光の夏」の映画化が発表されました。同年、市内でも田代小学校などで撮影が行われ、翌1993(同5)年に全国で上映されました。
田代小学校での撮影のようす
仲代達也さんら出演者などが表敬訪問や映画の完成報告のために市役所を訪問(平成4年)